ゴルバチョフ 書記 長。 ゴルバチョフ回想録〈下巻〉

天安門事件

ゴルバチョフ 書記 長

概要 [ ] 3月にに就任し、内政では停滞していたソ連の政治経済の抜本的改革を目指し(改革)と(情報公開)を断行、外交ではに基づきを支持しを終結させた。 しかし、ソ連国内のを抑えることができず、派と改革派に国内の政治勢力が分裂する中、の「」を招き、締結に失敗した。 結果として、ソ連共産党のとソ連そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。 、ソ連で最初で最後となるに就任し、同年にはを受賞した。 などでは広範な人気があり、 ゴルビーの愛称で親しまれるものの、ロシア国内などではと並ぶであったとその後の国力低迷の責任者と目され、評価が分かれている。 来歴・人物 [ ] 生い立ち [ ] 、の にて、(農業集団化政策)の農民の子として生まれる。 幼年時代、のに遭遇する。 この時、祖父のアンドレイがの嫌疑で投獄された。 にが始まると、農業技術者だった父親のセルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフは従軍した。 夏の終わりに父が戦死したとの通知がもたらされたことで一家は悲嘆にくれたが、3日後に本人から「無事息災」と手紙が届いた。 スタヴロポリ地方は一時期、に占領されている。 、14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたというのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。 18歳でを授与される機会に恵まれ、、19歳の時にスタヴロポリ市当局の推薦でに入学した。 同大学在学中、後に妻となる哲学科の学生と出会う。 5年間の大学生活中、ゴルバチョフはストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間にから留学していたと出会う。 ムリナーシは後の「」の推進者の一人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。 10月、ゴルバチョフはに入党する。 ゴルバチョフとライーサは9月に結婚し、大学卒業と同時にスタヴロポリに移住して農業の勉強をする。 に娘のイリーナ ()が誕生。 大学卒業後、ゴルバチョフはソ連検察庁の国家試験を受験する。 いったんは内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻って地元の活動に従事し、書記になった。 やがて、スタヴロポリ地域の農業行政官となり地区書記に昇進した。 正直で改革の志のあることで名声を高め、政界の階段を駆け上がった。 権力の掌握 [ ] にスタヴロポリ市コムソモール、にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、にスタヴロポリ市党第一書記、にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、にスタヴロポリ地方党第一書記に就任し、には40歳でに選出される。 この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、に科学的者の資格を得ている。 ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党として階梯を登り始めた時期は、のが実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。 この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者のや、同郷のの知遇を得たほか、同格の地方共産党の指導者であった(党第一書記)や(第一書記)らと交流を持つに至る。 11月、急死した政治局員・書記の後任として党中央委農業担当書記に抜擢される。 ゴルバチョフの書記への任命は中央委員会に於いて満場一致で承認された。 彼と妻は、に引っ越し、国から家が与えられることになった。 にはとして政治局入りする。 彼はその新しい役職で、しばしば1日あたり12時間から16時間働いたという。 ゴルバチョフは過度に中央集権化された国の農業管理システムに対する懸念を強めていき、中央委員会で問題提起を行った。 彼は、他のソビエトの政策についても問題意識を持ち始めた。 のソ連軍によるも誤った政策だと考えていた。 しかし、時に彼は公然と政府の立場を支持した。 例えば、10月にソビエト政府が政府に対して同国内での批判意見の取り締まりを要請した際には、それを支持した。 同月、党中央委員会総会で史上最年少の政治局員となる。 のの死後、アンドロポフが書記長に就任すると、ゴルバチョフは事実上のソ連の権力No. 2に当たるイデオロギー担当書記に引き立てられた。 4月には、彼はの生誕113周年を記念する演説を任せられた。 アンドロポフの死後に書記長となったは病弱であったため、ゴルバチョフは「第二書記」としてチェルネンコを補佐し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。 、を訪問し、(当時)のと会談する。 この時に駐カナダ大使で、後にゴルバチョフ政権のNo. 2としてペレストロイカを牽引すると面識を持つ。 さらにを訪問し、(当時)のから「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。 書記長就任 [ ] 3月、チェルネンコの死去を受けて共産党書記長に就任する(54歳)。 高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさは『』紙でのゴルバチョフの写真が死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。 ゴルバチョフの有力なライバルとしては、党第一書記のがいた。 しかし、ロマノフは代わりに党第一書記のを推薦するが、・第一副首相のらの推薦を得たゴルバチョフが勝利した。 推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔はすばらしいが、鉄の歯を持っている」と語った。 ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」にふさわしい人事刷新を矢継ぎ早に行う。 自身の後任の「第二書記」にはを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。 対抗していたグリシンとロマノフ、老齢のを解任し、共産党中央委員会書記の(経済担当)を当てた。 また、グロムイコを(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だったを抜擢して内外を驚かせた。 また、経済担当の閣僚では、(国家計画委員会)議長を解任、後任にを任命した。 軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられ、若返った。 次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。 書記長就任から8か月後の11月、・にて、の(当時)と米ソ首脳会談を行う。 この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。 4月、ゴルバチョフはで「建て直し」「再建」を意味する を提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。 4月に発生したを契機に、情報公開( )を推進する。 当初、レーガンやの派はゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来のの修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消されることになった。 経済改革では、社会主義による・統制経済に対して、個人営業や(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、8月にを制定した。 ペレストロイカは次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。 その中で、自らが電話でその解放を伝えたをはじめとするソ連国内の反体制派()が政治的自由を獲得し、時代のの犠牲者に対する名誉回復が進められた。 ゴルバチョフは自身をのその日まで「者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「」「」 といった新たな価値によって国内政治及びにおいて大胆な転換を実行していった。 (右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフ 1986年7月、ゴルバチョフは演説でからの撤退と中ソ関係改善を表明した。 10月には・において米ソ首脳会談が行われた。 アメリカのレーガン大統領が掲げていた(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力( Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。 このことが、12月に成立する(INF全廃条約)につながっていく。 10月、ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任し、となる。 12月、を改組し、を設置する改正法案が採択される。 この頃より守旧派に接近を余儀なくされる。 求心力の低下したゴルバチョフは、3月、と強力なを導入(これによりこれまでの書記長制を廃止)するを人民代議員大会で採択させた。 、人民代議員大会において実施されたにおいて、ゴルバチョフはソ連の初代大統領に選出(これによりソ連の国家最高責任者は書記長から大統領に移行した)されたが、ゴルバチョフがロシアに導入したのようなではなく、人民代議員大会によるで選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった。 副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を電撃的に辞任して世界中を震撼させた。 ゴルバチョフは政治局員を副大統領に指名した。 一方、人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任されたが人民代議員として復活し、さらに1990年にはの大統領となり、さらにソ連共産党から離党を宣言して、党外改革派の代表としてゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。 マルタ会談にて、(手前右)と会談するゴルバチョフ(手前左) 国内政策での保守派への妥協にも関わらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。 従来のによる強圧的な諸国への影響力行使とは大きく異なり、やで起こったによる運動のはもう起こらないことを示した。 事実、1989年のにおけるを起点とする一連のに関して、ソ連は軍事的行動を行わず、1990年にはのへの統合()まで実現することになった。 ゴルバチョフは前に当時の東ドイツの最高指導者に対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土への軍()の展開には反対したが、西ドイツの首相が示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。 冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられたの中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して、共産党内の保守派と接近した。 共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。 ゴルバチョフ自身も保守派への配慮から2月にの首都で発生したに対するソ連軍・治安警察による武力弾圧を承認せざるを得なかった。 また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、1989年5月にを訪問して長年のに終止符を打った。 これはに続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。 1990年のではでに賛成して米ソの和解を演出する一方、米国との停戦を仲介した(ゴルバチョフの案は当時のとによって修正され、協定が結ばれた)。 1991年4月にはソビエトの最高指導者として初めても訪れ、(当時)との締結交渉や帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。 の革命記念日、モスクワので軍事パレードが行われていたとき、ゴルバチョフ暗殺未遂事件が発生した。 労働者のデモンストレーションの最中、行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進がレーニン廟(この講壇上にソ連の指導者が並んでいた)に近づくと、ゴルバチョフめがけて2発の銃弾を放った。 しかし、弾は外れた。 シモノフがライフル銃を取り出してすぐに護衛に発見され、狙いを定めている間、将校が走ってきて銃身を殴ったため、弾は空に逸れた。 シモノフはデモに参加していた群衆に取り伏せられ、すぐさま逮捕された。 彼は、の前最後のソビエト時代の暗殺者であり、その後4年間を精神病院で過ごした。 ソ連中央テレビは一時放送を中断し、午前11時25分に通常放送を再開した。 8月クーデター [ ] 詳細は「」を参照 、ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。 ロシアSFSRのエリツィン、のの2人と会談し、をに調印する運びとなった。 ところが、 ()の大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、議長の、ヤナーエフ副大統領、そして、のらの「」を名のる保守派が起こしたクーデターによって、妻のライーサや家族、大統領補佐官の (、)らとともに別荘に軟禁された。 ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワでエリツィンや市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。 (ライーサ夫人は救出後に「軟禁中、『ソニー』が一番役立った」とコメントしている。 ) 上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜した。 これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。 ソ連共産党解体とソ連崩壊 [ ] 詳細は「」を参照 にゴルバチョフはで今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員たちはゴルバチョフの演説に耳を傾けることはなかった。 同時に、ロシアSFSRのエリツィンはソ連共産党の活動停止の大統領令に署名する。 翌、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任する。 し、ソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、との独立を承認した。 クーデターからおよそ10日後の、ソ連最高会議の臨時でパブロフ首相の不信任案が可決され、ソ連共産党の活動全面停止を決定した。 同年末には、この時点でゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシアSFSRのソ連邦からの脱退を進めたことにより、ソ連は崩壊した。 、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任した。 結果的にソ連時代唯一の大統領となった。 ソ連崩壊後 [ ] (右)と握手するゴルバチョフ() ソ連崩壊を不本意な形で迎えたゴルバチョフにとって、年金生活入りすることは論外であった。 1991年12月より、(通称、 ゴルバチョフ基金または ゴルバチョフ財団)を設立、自ら会長に就任した。 また、に主な活動を移し、会長として元事務局長のとのの作成やへの署名 など国際環境保護運動に積極的に参画した。 政治活動としてのに立候補したが、得票率は0. 5%で落選した。 その後、のCMに出演するなど、政治以外の活動も開始する。 、妻のライーサをで失う。 最愛の妻を失って悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。 11月、党首に就任したが、には同職の辞職を発表、事実上の政界引退となった。 なお、ロシア社会民主党はロシア最高裁から解散命令が出され、ゴルバチョフは不快感を表明した。 11月には右に異常が認められ、のの病院に入院、に手術を受け、経過は良好であると発表された。 にはの高級バッグメーカーの社の広告に登場した際には、脇に毒殺事件を特集している雑誌記事が映っており、政権を暗に批判しているとの憶測が出ている。 しかし2007年、を目前に(社会民主連合)を創立し、結成大会で議長に選出される。 就任演説で「議会は一党のほぼ支配下にある。 の理念もも取り込んだ幅広いものとするべきだ」と現状を批判し、政界復帰の意欲を見せたものの、同選挙ではプーチンのへの投票を呼びかけた。 ゴルバチョフはプーチンについて、「ロシアに(ソ連崩壊後の)安定と経済的繁栄をもたらした」「強いソ連(ロシア)を復活させた」として評価している。 しかしプーチンが党首を務める統一ロシアについては、に入ってので「官僚の党」と述べ、更に「それはソビエト連邦共産党の最悪の形だ」と批判している。 の不正疑惑やの事前審査でらが立候補を制限されたことなどを受けて、プーチン政権批判を強める。 「専制」を排除し、政治改革を実現するための国民投票実施を提唱する論文を発表したとインタファクス通信は報道した。 に勃発したについては、にの番組「」に出演した際、「ロシアの軍事介入は・の惨状への対応であるため、ロシアとグルジアの衝突を招いた責任はグルジアにある」と発言した。 また、のマスコミに対しては、「ツヒンバリの惨状について最初しか映し出さず、ロシアのみに紛争の責任を負わせようとしている」と批判した。 また、アメリカが推し進めているを批判し、「再びを繰り返さないようにしよう」と述べている。 民主系新聞「」紙の大株主となっているほか、世界ノーベル平和賞受賞者サミットの公式スポンサーであるの自動車メーカーののテレビCMに、元・ポーランド大統領やの非暴力民主化活動家である、などとともに出演した。 新党結成 [ ] 2008年9月、ゴルバチョフは、 とともにという新党を結成したことを発表し 、5月には、活動がまもなく開始されることも発表した。 その際に多数の支持者がいることも述べた。 これは2001年の結成および以来、ゴルバチョフの3度目の政党結成の試みである。 2019年に中距離核戦力廃棄条約が失効すると、条約の失効は新たな軍拡競争を生み出すと懸念を表明した。 また、全ての国がの廃絶を宣言すべきだとしている。 評価 [ ] 左からブッシュ、レーガン、ゴルバチョフ(、にて) ゴルバチョフに対する評価は二分している。 前述したように現役当時から西側諸国では絶大な支持がある。 の首都・に訪問した時など「ゴルビー! ゴルビー!! 」と、冷戦当時に西ドイツを訪問したアメリカの以来の熱狂的な支持があった。 米『』誌の特集「20世紀の重要人物100人」に、ロシア出身の政治家からはとゴルバチョフのみが選ばれている。 一方のロシアでは、就任当初を除いて在任中から不人気であり続けた。 風貌と語り口から典型的な南ロシア出身者とみなされたことが、エリツィンの人気を一層引き立てる結果になった。 また、ゴルバチョフが政権初期に飲酒制限政策(酒類供給量の制限や販売時間の制限等)を展開したことで、酒好きで知られるロシア人からさらなる反感を買うこととなった。 逸話 [ ] マスメディアへの露出 [ ] の監督の映画『』に本人役で出演した。 『』(作曲)のCDでは、元のらとともにナレーションで出演しており、第46回で最優秀子供向け朗読アルバム賞に選ばれた。 のテクノグループのアルバムに『In Gorbachev We Trust』(1989年)があり、ジャケットにゴルバチョフの肖像画が使われている。 1997年には、のテレビCMに出演 、また、前述の通り、ルイ・ヴィトンの秋の広告にや、夫妻と出演している。 撮影はの前で行われたが、これはゴルバチョフのリクエストによるもの。 出演料は自身が設立した環境保護団体と、元の防止事業に寄付されたという。 ゲームでの登場 [ ] に当人の名を冠した用『』がより発売された。 また、セガ(後の)の携帯ゲーム機用ソフトで『』というタイトルがある。 ゲーム内容は主人公のゴルビーを操作し、内での目を盗んでなどの物資を貧しい民衆に送り届けるというもの。 ゴルバチョフと日本 [ ] 妻との初めてのデートはのコーラスグループ、のコンサートであったとに語っている。 また、初来日の際、を見て非常に驚いたというエピソードがある。 書記長・ソ連大統領時代の4月16 - 19日には日露(日ソ)会談のため来日、(当時)や元のと会談を行っている。 この時同伴したライサ夫人のでの買い物シーンがテレビを通じて報道され、ソ連国内で「国民が経済不調で苦しんでいるのに」と不評を買った。 政界引退後は各種団体やマスコミなどの招きで頻繁に来日し、そのつどテレビ番組などに出演しているほか、地方都市にも足を伸ばし、講演会なども催している。 4月には、の両校で講演を行い、同年の創価大学と11月にはより、それぞれ号を授与され、同年及び5月の2度にわたり日本大学にて講演を行った。 6月に来日した折には、に出演(同年7月5日放送)。 また、同年12月にも再び来日し、放送の系のバラエティー番組『』に講師として出演。 同番組内の講義の中で「日本には毎年何回も来ており、正確な来日回数は自分でも分からない」と述べている。 同番組ではに勃発した開戦当時は丁度来日していて、一般乗客としてに乗車していた最中にニュースを聞いて初めて知ったと述べている(番組ではのへの侵攻を「政治的な大きな誤り」であると批判した)。 ちなみにこの番組には生徒役(ゲスト)として、当時の首相の長男で俳優のが同席しており、同年9月に行われた()を高く評価した。 また、だったと何度も面会したことがあり、翁長の死去に際して追悼メッセージを送った。 このほかに来日こそしていないものの、ののに出演しメッセージを送っている。 2014年3月28日の『』(金曜日最後の放送分)の「」でが出演した際は、ゴルバチョフ財団の名義で花を贈っている。 の来日では首相(当時)と会談したほか、1990年 より親交のあるのとも対談した(対談内容は発行の雑誌『』に全文が掲載)。 このほかにで学生との対話集会を催し、その模様が同月及び1月に「ゴルバチョフ 若者たちとの対話」としてにて放送された。 また、『世界一受けたい授業』の2010年新春スペシャルの収録にも講師として再び出演した(『世界一受けたい授業』2010年新春スペシャルは2010年1月2日に放送 )。 2010年2月にも再来日し、・系列のバラエティー番組『』の「」にゲストとして出演、ソ連時代の自分の周囲の出来事をリーダーのに語っていた。 演説集を出版するなど、とは関係が深く、日本テレビ系列の番組に多く出演しているのもその繋がりである。 また、創価学会の池田大作名誉会長とはにで行われた初めての会談 を皮切りに来日時には毎回面会している。 逆に池田名誉会長がロシアを訪問する際にも面会し、ほぼ毎回対談しており、面会・対談の様子は『潮』や発行の写真雑誌『グラフSGI』などに掲載されている。 ・名誉博士・名誉博士などのを有する。 栄誉 [ ]• 労働赤旗勲章受章(1949年)• 受賞(1990年)• 受賞(1992年)• 創価大学名誉博士(1993年)• 日本大学名誉博士(2003年)• 明治大学名誉博士(2009年)• 聖徒アンドレイ・ペルボズバンニー勲章(2011年) 著書 [ ]• 『ペレストロイカ』 訳、、1987年• 『ゴルバチョフ演説集』 、、同外報部訳、1991年• 『世界を震撼させた三日間』 福田素子訳、、1991年(の回想記)• 『ゴルバチョフ回想録』(上・下)、・鈴木康雄訳、、• 『二十世紀の精神の教訓』(上・下) 、(池田大作との対話、文庫化に際し上・中・下巻に分冊)• 『ゴルバチョフ演説・論文集』(1-4)、ソ連内外政策研究会訳、国際文化出版社• 『ゴルバチョフと池田大作』 中澤孝之 2004年 脚注 [ ]• Simon Sebag Montefiore; 平野和子訳 2009年6月15日. その時、歴史は生まれた 世界を変えた名演説集. 清流出版• "Vision on the World Stage", Washington Post, November 9, 1988• "The Gorbachev Challenge", Time Magazine, December 19, 1988• 塩川伸明「ペレストロイカの時代」(和田春樹編『ロシア史』〈新版世界各国史22〉、山川出版社、2002年)。 Earth Day: Visions of Peace, Justice, and Earth Care: My Life and Thought at Age 96. "", , November 29, 2007. 大野正美「ゴルバチョフ氏、冷めぬ改革熱」『朝日新聞』2007年10月22日。 47NEWS. 2012年1月28日閲覧。 Gray, Sadie 2008年9月30日. London:. 2008年10月1日閲覧。 2009年5月13日. の2011年7月16日時点におけるアーカイブ。 2009年6月13日閲覧。 BBC News. 2007年10月20日. 2007年10月20日閲覧。 2019年8月2日朝刊1面. 2020年5月5日閲覧。 2020年5月5日閲覧。 businessinsider(2017年11月24日)2017年11月30日閲覧• 「」 、2007年8月28日。 この話は放送のNHKのラジオ番組で五木自身が披露している。 琉球新報• 公式サイト「」• 世界一受けたい授業公式サイト• この会見ではソビエトの最高指導者としては初めてとなる日本訪問を 「来年(1991年)の桜の咲く頃」に行うと明言。 最終的な日程は外交当局間の交渉によって確定したものの、翌1991年4月の来日がこの会談で事実上確定した。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (ロシア語) (英語)• (英語)• (英語)• (紙2005年3月8日号のインタビュー) (英語)• (英語)• (CNN冷戦特集より) (英語)• (Write Spiritより) (英語)• (Revolutionary Democracyへの寄稿記事) (英語)• (英語)•

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ソビエト連邦の指導者の一覧

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胡耀邦の民主化政策 毛沢東の死後、腐敗した共産党幹部や政府、役所の幹部が中国を掌握していた中で、党総書記の胡耀邦は、汚職と距離をとり、民主化政策を進めた。 民主化を懸念する共産党の保守派により辞任に追い込まれることとなる。 胡耀邦を追悼 中国の民主化を進めた胡耀邦は、1987年1月、党の総書記を辞任し、その2年後の1989年4月に死去した。 4月15日の正午に死去が公表されると、その夜のうちに北京大学で学生による追悼集会が開かれた。 2日後の17日には、中国政法大学の学生500人が、大学から天安門広場までデモ行進を開始した。 民主化の要求 天安門のデモは、初めは胡耀邦を追悼し、胡耀邦が間違っていなかったことを再評価してほしいという要求であったが規模が大きくなり次第に民主化運動に発展し、言論の自由の保障、共産党・政府幹部とその子弟の収入の公開などを要求した。 大学自治連合組織 1987年4月22日共産党主催の胡耀邦追悼大会が開かれたが、胡耀邦の再評価はされず、学生の要求を無視する形で進められた。 これに対し、各地の大学では無期限の授業ボイコットに入る。 共産党の影響下にない、各大学の学生による横断的な大学自治連合組織が設立した。 人民日報 1987年4月26日、共産党の機関紙「人民日報」に、「動乱に反対しよう」という社説が掲載されたが、共産党で使われる「動乱」とは、共産党に反対する革命を起こすことを意味した。 学生の要求を却下するだけでなく、過剰に宣伝し、反体制分子として認定された。 社会主義擁護 共産党体制の下、穏健な形での民主化を求めた学生たちは、1987年4月27日、5万人が、社説の撤回を求めてデモ行進した。 学生たちは、「共産党擁護」「社会主義擁護」の横断幕を掲げ、誤解をとき、あくまでも共産党体制の中での自由化や民主化を求めていることを示した。 趙紫陽総書記の思惑 趙紫陽総書記は、学生運動に理解を示し、経済の「改革・開放」を進めるため社会の民主化を進めようと考えていた。 社説の撤回を求めて、保守派と対立。 共産党の名目上のトップである趙紫陽と・共産党の最高実力者の保守派が対立する、という構図になった。 しかし、が社説の掲載を決めた以上、くつがえることはなかった。 ゴルバチョフ書記長との会談 ソ連や東欧の自由化を進めているソ連のゴルバチョフ書記長が、自由化を規制しようとする中国を訪問した。 世界各地から報道陣がやって来、この騒動の行く末を見守っていた。 学生運動の学生たちも、この機会を利用し、民主化運動を展開することを決めた。 中国政府は、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典を天安門広場で開催しようとしたが、学生たちの座り込みで断念し、歓迎式典は、空港に移したが、メンツを重んじる中国首脳にとって、屈辱的であった。 趙紫陽の牽制 1987年5月16日、迎賓館で、ゴルバチョフ書記長と趙紫陽総書記の会談が行われ、その模様は、冒頭生放送された。 趙紫陽総書記は、重要なことはが決め、権力を掌握し、事実上の最高権力者であることを述べた。 このことは学生たちはもちろん、中国国民や一般の共産党員にも知られていない事実であり、一切の責任はにあることが公に知られることとなった。 怒りの矛先は、に向かうこととなる。 天安門事件 趙紫陽の失脚 19日未明、趙紫陽は天安門広場で演説を行ったが、ここから表舞台に出ることはなく失脚した。 同日の夜、保守派の李鵬 り・ほう 首相が首都の治安回復をテレビで呼びかけた。 李首相は冒頭、「党中央、国務院を代表して」と話し始め、総書記の代わりに、保守派の李鵬首相が演説していることで、国民は、趙紫陽総書記が失脚したことを知った。 人民解放軍による武力弾圧 6月4日、解放軍は、学生たちへの軍事鎮圧が行われ、次々にデモ参加者拿捕された。 学生たちが天安門広場に集まっている間、公安当局は、学生たちに関する膨大な資料を集め、ビデオの隠し撮り、顔写真と氏名の照合などが行われていた。 天安門広場が一掃された後も活動家は次々に逮捕、処刑されることになった。 死者は、中国の発表では10人程度、一般には数百人~1000人程度と概算されているが、イギリスの外交文書では、1万人と報告されている。 天安門事件 戦車を止めた男 6月5日、人通りの絶えた大通りを進む戦車の列の前に、ワイシャツ姿のひとりの男性が立った。 見守る人たちが息をのむ中、戦車は止まり、男とにらみあいになりました。 やがて現場から連れ去られた。 王丹 王丹 おう・たん は、学生デモが始まったとき、北京大学歴史学部1年生であった。 天安門事件後、学生リーダーたちが国外に脱出する中で、国内にとどまり逮捕された。 一度は釈放されますが、事件で中退した学生を救う運動が反体制派の勢力を作る画策とされ、再び投獄。 獄中で健康状態が悪化し、病気治療を名目にアメリカに渡った。 柴玲 柴玲 さい・れい は学生運動のを主導した女性である。 北京師範大学心理学部大学院の学生で、結婚していた。 天安門事件の後、夫とともに指名手配され、中国国内の仏教団体の手引きで香港へ脱出する。 いったんはパリに移ったが、そこで夫と離婚。 アメリカに渡り、プリンストン大学卒業後、ハーバード大学ビジネススクールを出た。 ウアルカイシ ウアルカイシは、新疆ウイグル自治区出身のウイグル族で、北京師範大学の学生。 事件後、中国の地下組織を通じて香港に脱出した。 その後、台湾出身の女性と結婚して、台湾の雑誌の顧問になっている。 情報戦 海外マスコミの取材に応じた人たちのインタビュー映像を、中国国内に送り、公安当局は、この映像を中国国内で流し、指名手配者として放送した。 海外の放送を勝手に使われ、人権弾圧に利用したことで海外メディアの批判が共産党に集まった。 江沢民 胡耀邦、趙紫陽を切った鄧小平は、保守派の李鵬を起用することなく、「改革・開放」路線を進めていた上海 シャンハイ の江沢民を連れて、共産党の総書記に置き、江沢民時代が始まる。 拝金主義 天安門事件以降、一般国民にとって、政治の話はタブーとなり、鄧小平が進める経済の「改革・開放」路線だけを考えるようになる。 結果、社会に拝金主義が蔓延した。

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ゴルバチョフ/ゴルバチョフ政権

ゴルバチョフ 書記 長

ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー氏 元西ドイツ外務大臣(1974~1992) ミハイル・ゴルバチョフ氏はヨーロッパ全土に新しい未来を開いた。 冷戦の真っ只中、ヨーロッパ共通の家という概念を作成。 ヨーロッパの共通の遺産、ヨーロッパ人の共通の責任を認識した。 西側で多くの人が冷戦の固定観念を頑なに保持していた時に。 (中略)しかし、ヨーロッパの偉大なるロシア民族は、ヨーロッパの歴史的、文化的アイデンティティの一部である。 ゴルバチョフ氏は常にこう確信していた。 フランソワーズ・サガン氏 フランスの作家、1993年の記述 ゴルバチョフ氏は最も想像しがたい、最も望まれた、最も大胆な開放を行った人物として残り続ける。 恐怖によって75年間も抑制されていた人々の枷(かせ)を壊し、重い軛(くびき)を外した。 一滴の流血もなしに、断固かつ速やかに人々を解放した。 ボノ氏 アイルランドのバンドU2のリーダー ゴルバチョフ氏にはまれな、説明できないようなエネルギーがある。 その動きや作法はボクサー、暴れん坊さえほうふつとさせる。 だが偉大なる知性の人物。 思考は柔道の精神そのもの。 柔道とは何か。 それは相手の力を利用すること。 ゴルバチョフ氏はロシアを救い、そこからいかなる利益も引き出さなかった政治家である。 エリック・ホブズボーム氏 イギリスの歴史家、2005年の見解 ミハイル・ゴルバチョフ氏に対しては、永続的な敬服の念を抱いている。 これはあることを知っている全ての人が抱く敬服の念である。 それは、ゴルバチョフ氏の取り組みがなければ、世界をいまだに核戦争の破壊の影が覆っていたであろうということ。 (中略) では、ペレストロイカは第二のロシア革命をもたらしたのだろうか。 答えはノー。 これは1917年革命によって構築された体制の崩壊をもたらした。 その後、社会的、経済的、文化的荒廃の時期が続き、ロシア人はいまだにそこから脱却しきれていない。 この災難からの復興はすでに、ロシアの世界大戦からの復興よりも長く続いている。 ニキータ・ミハルコフ氏 ロシアの映画監督 国家レベルでゴルバチョフ氏とエリツィン氏の罪を認めるべき。 2人は実際的な犯罪を犯した。 意図的であるか否か、貫いたものが情熱であるか否か、そんなことは今は関係ない。 その行いが国の崩壊を招いた!ここ100年で最大の地政学的な惨事である。 アレクサンドル・プロハノフ氏 ロシアの作家 私にとってゴルバチョフ氏は悪と同義語。 我が故郷の崩壊の象徴。 いまだに抜け切れていない一連の不幸を、この人物を通して、我々は背負った。 これは偉大なる文明、偉大なる技術、偉大なる科学、偉大なる文化の崩壊、ロシア史のベクトル丸ごとの崩壊である。 ニコライ・ルイシコフ氏 元ソ連首相(1985~1991) エリツィン氏とゴルバチョフ氏の両名。 どちらにも大きな政府は禁忌であった。 これは我々の過ち。 私も含めて。 ゴルバチョフ氏が1985年に政権を握った時、私も支持したのだから。 他の人も支持していた。 だが就かせるべきではなかった。 その力はなかったのだから!国に説教者というポストがあったら、見事にこなせていたであろう!ゴルバチョフ氏は何時間もしゃべり続けたに違いない…だが計画的かつ思慮深く国を運営するとなると…とても衝動的で無秩序な人だった。 フランソワ・ミッテラン氏 元フランス大統領(1981~1995) ゴルバチョフ氏を、今世紀史における最も優れた人物、自国に民主主義をもたらし、冷戦終結と軍縮を成し遂げた人物として、歓迎している。 アナトリー・ルキヤノフ氏 元ソ連最高会議議長(1990~1991) 自分で決定することに慣れていない典型的なコムソモールの活動家。 決定は常に、共産党員か執行当局の職員が行っていたから。 政権のずっしりと重い外套は、コムソモールの肩には合わなかった。 マーガレット・サッチャー氏 元イギリス首相(1979~1993)、1984年の発言 ゴルバチョフ氏は比較的オープンだし、知的。 人当たりが良く、一定の魅力とユーモアがある。 この人となら仕事ができる。 むしろ気に入ったぐらい。 ゴルビーを高く評価しているのは西側諸国の人間が殆どです。 単純に考えてみれば、敵として存在した強大国を一度は弱小化させたのですから、そうして当然かもしれません。 一方、ロシア人は自国のプライドや強大国としてのイメージを傷つけたと思っており、ゴルビーを不快に感じているのでしょう。 深く考察するとまた色々出てきそうですが、大まかに考えられる原因は以上に述べた様な物だと思います。

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