レーニン スターリン。 レーニンも「非情な男」と呼んだ独裁者スターリン

ヨシフ・スターリン

レーニン スターリン

イオファンは、かの有名な超豪華マンション「川岸の館」の設計者だ。 このマンションには、政府首脳、高級官僚、党幹部などが住んでいた。 イオファンは生涯にわたり、自分の主要プロジェクトがついに実現されなかったことを残念がっていた。 当初の案では、建物の天辺に「解放されたプロレタリア」なる彫像が飾られていた。 これは、松明を手にした高さ18㍍の労働者像だ。 ところが、よくあったことだが、このデザインにスターリンが自ら口を挟んできた。 彼は、宮殿はレーニンとその教説の記念碑たるべし、と言った。 その結果、プロレタリア像は、全高100㍍に及ぶレーニンの巨像に置き換えられた。 Iofan, V. Gelfreich, V. Schuko 「モスクワ上に伸ばされたレーニン像の腕は、長さがほぼ30㍍。 人差し指の長さは4㍍を超える。 晴天の日には、レーニン像は、数十キロメートル先からも望める」。 プロジェクトにはこう記されていた。 ソビエト宮殿は、一度に最大4万人を収容できると想定されていた。 クレムリンに面したファサードには、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの像が飾られていた。 建築様式の点では、このモニュメンタルな建造物は、アヴァンギャルドからスターリン様式への移行を示しており、ソビエト権力の象徴の浅浮き彫りで、ふんだんに装飾されていた。 会議から水浴まで ソビエト宮殿の内装 N. 建物には、高速エレベーター、クレーン、空調システム、巨大なメディアスクリーンを備えた多機能ホールなどが備えられる計画だった。 例えば、革新技術の一つは、変容するステージだ。 必要に応じて、それは…プールに変わることができた。 モスクワ都心の改造 ソビエト宮殿はクレムリンの近くに建設される計画だった。 現在の救世主ハリストス大聖堂の場所だ。 そこから、ソ連の秘密警察「KGB」の本部があるルビャンカまでは、「ソビエト宮殿大通り」が貫き、そこから各幹線道路が分岐して、首都の各地区を結ぶはずだった。 モスクワ再開発プラン。 5番はソビエト宮殿、他のはスターリン時代に建設された摩天楼 ソ連建築組合 これを実現するために、いくつかのとくに価値ある建築物をのぞいて、都心部にある革命前の建物はすべて完全に破壊、撤去することになっていた。 そうした建物の中には、モスクワ屈指の名所で美術の殿堂である「プーシキン美術館」も含まれていた。 幹線道路を拡張するために、これを脇に移動する必要があったからだ。 しかし、都市改造担当者と建築家の壮大な計画は、第二次世界大戦によって妨げられた。 宮殿のかわりに屋外プールが出現 1931年に、元の救世主ハリストス大聖堂は爆破され、新しい建物つまりソビエト宮殿の基礎部分の建設が始まった。 建設作業は8年間続いたが、独ソ戦(大祖国戦争)の勃発後に、完全に停止された。 1941~1942年には、宮殿の金属フレームは、橋と対戦車障壁の建設のために解体された。 戦後も、プロジェクトが復活することは二度となかった。 スターリンの次代の指導者フルシチョフは、個人的にそれを好まなかった。 1960年、ソ連最大のプール「モスクワ」(直径130㍍)が、ソビエト宮殿の基礎の敷地に造られた。 このオールシーズンの屋外プールは、ソビエト政権を生き延び、ソ連崩壊後の1994年に閉鎖された。 救世主ハリストス大聖堂の再建のためだ。

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スターリンとレーニンの違いとは?なるほど!なっとく!2つの違い

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沿革 [ ] 1月21日にレーニンが死去した際、レーニンの木製の墓がクレムリンの壁に作られ、レーニンの棺が置かれた。 最初の6週間で10万人以上の人々がこの棺を見るために訪れた。 全国から弔問に訪れる人民のため、その後遺体に保存処理()が施され、にの設計により、木造の遺体安置所が短期間(約3日間)で建設された。 当初レーニンの遺体は、追悼行事の終了後埋葬される予定であったが、により恒常的な施設として、現在の石造の廟を建設し、完成させた。 にが死去すると、その遺体も保存処理が施されレーニンと並んで安置されていたが、の「第二次」にともなって撤去され、クレムリンの壁とレーニン廟の間にある英雄墓域に埋葬された。 スターリン以後のソ連最高指導者のうち、在職のまま死去した、、の3名もこの墓域に埋葬されている。 赤の広場で行われる国家的行事に際しては、・政府のはレーニン廟のひな壇から観閲し、演説を行うのが慣例となっていた。 レーニン廟に並ぶ指導者の顔ぶれや序列は、のジャーナリスト・研究者にとって、ソ連指導部の動向を知る手がかりの一つであった。 後、何度も廟の撤去案が持ち上がっているが、その都度多くの反対に合い、撤去されないまま現在にいたっている。 撤去案を支持する主張は政府がレーニン廟への財政的支援を打ち切り、個人の寄付でレーニンの遺体の保存を担当するスタッフを支えるというものである。 1月にロシアのであるがレーニン廟撤去の賛否投票を行えるサイト(外部リンク参照)を立ち上げた。 12月に大統領のは撤去反対派のと軌を一にしてレーニンをに準えて保存を主張しての一部から批判を受けた。 2016年ロシア政府は遺体の保存を継続する事を決定し、遺体の保存のために1300万を費やす事を計画した。 2018年はウラジーミル・ペトロフがレーニンの遺体をレーニン廟から撤去する事についての問題を調査するための特別委員会の設置を提案したと報じた。 ウラジーミル・ペトロフはレニングラード州の議会のメンバーである。 ペトロフはレーニンの遺体を人工の樹脂でできたコピーに取り替える事に賛成している。 共産党員であるドミトリー・ノヴィコブはペトロフの提案に強く反対している。 改修 [ ] 2012年12月末には、著しく老朽化が進んだレーニン廟の本格的改修を行うことが決定した。 2013年4月まで改修工事が行われた。 また、1993年秋まではレーニン廟の入口にも衛兵が立っており、の鐘の音に合わせて1時間毎に交代をしていたが、現在ではそういった光景は無くなっており見ることが出来ない。 この節のが望まれています。 構造は、やの墓のような古代の霊廟からのいくつかの要素を参考にしている。 内部では、「」という技術でレーニンの遺体が保存されている。 この保存技術は旧で開発されたもので、レーニン廟付属研究所によるものである。 影響 [ ] レーニン廟の影響をうけ、いくつかのなどで指導者の遺体が永久保存処理され、これを安置する廟がつくられている。 も参照。 現在も設置されているもの• 現在は撤去されたもの• 2004年遺体撤去、2005年施設解体。 1990年遺体撤去、1999年施設解体。 1962年遺体撤去。 なお、のは、が1967年にで戦死したため、例外的に遺体そのものを欠いた形で出発した。 他の施設が首都の中心部に建てられたのに対し、ゲバラゆかりの地に建てられた点も独特である。 その後1997年にゲバラの遺骨がボリビアから返還され、これが納められた。 今日、観光客が廟内を訪れる際、敬意を示さなければならない他、写真撮影、会話、喫煙、手をポケットに入れる事、帽子を被る事は禁じられている。 脚注 [ ] []• Gwendolyn Leick 15 November 2013. Reaktion Books. Mark McDonald 2004年3月1日. 2010年4月19日閲覧。 [ ] 2010-07-04 at the. 2016-04-12. 2020年1月8日閲覧。 産経新聞. [ ]• See, e. , a statement by President Putin in Sankt-Peterburgsky Vedomosty, July 19, 2001. 参考文献 [ ]• 『レーニンをミイラにした男』(イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン、赤根洋子訳、、2000年) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 赤-反対、濃紺-賛成、灰色-保留• (緑-撤去賛成 赤-撤去反対).

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レーニン主義(レーニンしゅぎ)とは

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理論 [ ] 世界認識、経済学、社会主義論 [ ] を参照。 論 は、ととの確保のため、争奪戦争を必然化するとする。 戦略論 [ ] 革命後、全ての生産手段が社会化されるに至るまでの時期には、勢力となるが残存しており、革命勢力であるは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならないとする。 後にはマルクス・レーニン主義を定式化するにあたり、レーニンにおいては共産主義に至る前段階であったプロレタリアート独裁期をであるとした。 レーニンにとって「」とは、「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されることのない権力」のことであった。 (実際には、その他の政党は、体制下でもソビエトに参加していた。 ところが反革命のテロ活動を行ったとして、レーニンはこれらの政党を禁止した。 )そのため、レーニン直属のなどの抑圧機関が無制限に国民のを行った。 チェーカーはにと改名して、スターリン時代も国民のを行った。 これにより、元貴族や資産家、ばかりでなく、体制に反対した市民などが「」として無制限に処刑され、他の共産圏でも踏襲された。 一国でプロレタリアートの政権が成立しても、目標を実現したことにはならず、目標は全世界でを実現することにあるとするを発展させ、一国でのプロレタリアートの政権の成立はそれだけでは社会主義社会への移行には不十分で、特にの場合、プロレタリアートの政権の維持そのもののために、他国での連続した革命が必須であり、それを可能にするためには最初からプロレタリアートが革命をリードする必要があり、また既に権力の奪取が成功した国では止むことのない改革が必要であるとした。 レーニンは当初、を主張し、永続革命論を主張すると対立していたが、帝政の崩壊後永続革命論の立場に転じを発表した。 を標榜するスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するときに永続革命論を否定したので、ソビエトでは継承発展されず、トロツキーの思想の系譜につながる人々やなど西欧のマルクス主義者が継承し、形を変えながらも発展させた。 帝国主義戦争の内乱への転化() 自国が帝国主義戦争を起こすに至ったら、は自国の戦争での勝利のために闘うのではなく、戦争に乗じてを激化させ現体制を打倒するために闘うべきだとした。 レーニンはこのようにして時に革命を成功させ、ロシアを戦争から離脱させた。 [ ] レーニンは自らの党組織論をおおむね『何をなすべきか』()において記している。 これはを「経済主義」と呼んで批判する論争的な著作である。 レーニンは革命の可能性について自然発生性よりも目的意識性を重視した。 そのうえで革命への目的意識は外部からプロレタリアートに注入できるとも考え、革命理論はプロレタリアートの外側から知識人が持ち込むものと考えた(この点まではと一致している)。 加えて、それゆえに実際の党組織と労働者組織は峻別されるべきだと考えた。 これらの運動論・党組織論は次のように実践された。 により構成される党 を範とするは、大衆に開かれた党を主張した。 を率いるは、党の指導のもと、個人的に党活動に参加すべきであると考えていた。 しかし、「党員は党組織の一部を担う」べきだと主張しつづけていたレーニンは、大衆に開かれた党を官憲に開かれた党であるとした。 そのうえでのないロシアでは、革命党は職業革命家の党にならざるを得ないとした。 のちに、これらの党専従活動家・党官僚がと呼ばれる特権階級と化してしまうという皮肉が現出した。 もともとは「分派結成の自由」も含めた異論の表明は保障するが、少数は多数の「決定」に従わなければならない、とする組織原則。 ボルシェビキは、17年革命以前は分派結成の自由を保障していた。 革命後の内戦・帝国列強のロシア侵入に対する戦争の中で「指導部の指導力」を強める必要から、ロシア共産党はに一時的な措置として「分派の結成」を禁止した。 は、レーニンの死後、「党は討論クラブではない」として、「分派の禁止」を「民主集中制の原則」にまで高めた。 以後、第二次大戦後も各国共産党は、「分派を禁止する一枚岩の組織原則としての民主集中制」を保持し続けた。 それは党内討論よりも指導部による方針の上意下達を優先する、各国の共産党を例外なく蝕んだ「組織内官僚主義」の組織論的根拠となったと言えよう。 (民主集中制の組織原則は党の方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党の実践を通じて検証するという組織原則である。 民主集中制の組織原則を乱暴に破壊したのはスターリンであるとされる。 ) 一国一前衛党論 レーニンは第三インターナショナル()結成に際して、「支部承認」を求める組織に「社会民主主義からの訣別の証」として「(国名)共産党・共産主義インターナショナル支部」と名乗ることを義務付けた。 また、一国で複数の共産主義組織の加入申請があった場合はどれか一つ、もしくは組織の統一をさせたうえで支部承認した。 しかし、初期のコミンテルンは「一国一支部」を原則としながらも、「コミンテルン支部以外の共産主義組織」を「イコール敵対者」と定義していたわけではない。 KPD から分裂した KAPD も、コミンテルンのシンパ支部として受け入れられた。 このコミンテルンの原則を「統一した党は革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする「一国一前衛党論」として「原則」にまで高めたのはスターリンである。 その結果、スターリン指導下のコミンテルンによる「一国一前衛党論」は、各国支部以外の共産主義組織に対して「反革命トロツキスト」(それは必ずしもトロツキー派の組織ではなくてもレッテルを貼って攻撃した)などと激しく攻撃する「」の論理として機能していくことになる。 コミンテルンに対抗して1938年に結成されたのも「一国一支部の承認」を原則としているが、自派以外の共産主義組織の存在を認める「複数主義」の立場をとっている。 関連項目 [ ]• - 「マルクス・レーニン主義」はスターリンが定式化した• - スターリン主義を批判する• - 1976年改訂の綱領で「マルクス・レーニン主義」を「」に変更• 参考文献 [ ]• Was Lenin a Marxist? The Populist Roots of Marxism-Leninism - Simon Clarke.

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