スパイ が 終戦 間際 に 送り込ま れ た の は。 米国で見つかった日本の軍事機密「地図」14点

陸軍中野学校

スパイ が 終戦 間際 に 送り込ま れ た の は

これに協力したのはCIA副長官(当時)アレン・ダレスだった。 後のCIA長官となる人物の動きを戦後史家の有馬哲夫氏が追う。 * * * CIAから秘密資金の提供を受けた日本の政治家は、緒方竹虎をもって嚆矢とするが、それを与えたのはダレスだった。 彼は他にも多数のアセット(工作に使える人材)を獲得していて、戦後の日本を陰で動かしていた。 では、なぜダレスはこのような人脈を日本に築くことができたのだろうか。 彼と日本の結びつきはいつから、どのように始まったのだろうか。 それをたどるとアメリカ人でさえ知らない彼の意外な過去が浮かび上がってくる。 そもそもダレスは、天皇制を残し、原爆投下とソ連の参戦を防ごうとした人物だった。 彼はもともとニューヨークで金融取引の契約をまとめる弁護士をしていて、そのクライアントは共和党を支持するアメリカの金融資本と大企業だった。 彼らとダレスは日本の共産化も原爆投下も望まないという点で共通していた。 彼らにとって、日本は戦後ビジネスで大きな利益を出すことが確実な投資・技術移転先だった。 それゆえ、彼らは日本に穏健な政治勢力が残り、物質的破壊とマンパワーの喪失が最小限になることを望んだ。 これが、彼らが天皇制存置を望み、原爆投下とソ連参戦を防止すべきと考えた理由だった。 これに対して、当時の大統領ハリー・S・トルーマンはアメリカの戦後ビジネスにとっての利益・不利益よりも、真珠湾でだまし討ちをした日本を厳しく罰することを重視していた。 それが、彼を選出した民主党の支持基盤である「持たざる者」たちが強く願っていたことだからだ。 したがって、ダレスは面従腹背で天皇制存置、原爆投下・ソ連参戦阻止工作を行わなければならなかった。 そこで、今回は彼の対日終戦工作がどのように行われ、それが戦後の彼の日本人アセットの獲得とどう結びついていったのかをみていこう。 戦時中のダレスの地位はOSS(CIAの前身となったアメリカ大統領直属のインテリジェンス機関。 )スイス支局長だが、表向きの肩書はアメリカ大統領金融特別顧問だった。 もともと金融取引契約専門の弁護士だったのでこれはぴったりだった。 実際、彼は当時も金融情報を集めていた。 彼がいたスイスの首都ベルンは世界金融の中心地だ。 ここに集まってくる金融情報を見れば世界、とりわけヨーロッパの各地で、なにが起こっているか、起こりつつあるか知ることができた。 また、大統領金融特別顧問なので、情報収集を活発にしても、大量の電報を打ち、頻繁に国際電話をかけても、怪しまれずに済んだ。 もちろん、実際には軍事インテリジェンスの収集に重点が置かれていた。 ダレスがスイスで初めて獲得した日本人アセットも金融関係者だった。 ベルンから少しはなれたバーゼルに、ドイツから戦争賠償金を取り立てるために設けられた国際決済銀行があり、そこに第一次世界大戦で戦勝国となった日本から横浜正金銀行の吉村侃が代表として送り込まれていた。 のちにはドイツのベルリンからやってきた同じ銀行の上司・北村孝治郎が加わる。 吉村はもともとリベラルで反軍国主義だったが、それに加えて、ヨーロッパから集まってくる情報から日本が頼りとするドイツの惨状を知り、一日も早く日本と連合国の和平を実現しなければならないと考えるようになった。 そこへ国際決済銀行の幹部でスウェーデンの銀行家のペール・ヤコブソンがアプローチしてきた。 スウェーデン人なので安心したのだろうが、彼は戦前からダレスと親交があり、OSSの協力者になっていた。 吉村がダレスのアセットとなるのにそれほど時間がかからなかった。 その吉村のもとに1943年、岡本清福陸軍中将がやってきた。 岡本は当時ヨーロッパでは最高位の日本陸軍情報将校だった。 彼はヨーロッパ情勢を知るために金融情報にアクセスできる吉村に目を付けたのだが、吉村と同じように、客観的情報を得るにつれて、早期和平を達成しなければならないと考えるようになった。 驚くのは、ダレスはこれとはまた別の系統で日本人アセットを獲得していたことだ。 ダレスの現地秘書にゲロ・フォン・ゲフェルニッツというユダヤ系アメリカ人がいたのだが、この人物は日本海軍に武器を売っていたフリードリヒ・ハックというドイツ人と旧知の仲だった。 ゲフェルニッツの父はフライブルク大学の経済学教授で、その指導を受けたのがハックで、ゲフェルニッツを知っていたのだ。 ハックは反ナチ姿勢がたたって逮捕されそうになり、第二次世界大戦前の1937年にスイスのチューリッヒに逃れていた。 そして、日米開戦後は、スイスはもとより、ヨーロッパ各国からやってくる日本海軍関係者と報道関係者(新聞社と通信社)に、ドイツの敗戦が必至だということ、だから日本はできるだけ早く連合国と和平を結ばなければならないと説いた。 ドイツの敗色が濃厚になるにつれて、ハックのもとにベルリンから1943年に朝日新聞欧州特派員・笠信太郎、1945年に日本海軍中佐・藤村義一(後に義朗と改名)などがやってきた。 彼らはみなハックを介してダレスのアセットとなった。 まったく意外なのだが、ダレスはアジアから遠くはなれたスイスの地で、当時最強の対日インテリジェンス網を構築していたのだ。 1945年5月8日のドイツの崩壊のあとは、もはや本国外務省の方針に従っていられないとして、スイス公使の加瀬俊一もダレスと接触を始めた。 こうして、岡本を通じて梅津美治郎陸軍参謀総長、藤村ら海軍関係者を通じて米内光政海軍大臣、加瀬を通じて東郷茂徳外務大臣と天皇、笠を通じて情報局総裁・緒方(元朝日新聞主筆)につながる終戦コミュニケーションラインが完成し、ダレスの終戦工作の準備は整った。 ドイツが脱落した段階で多くを望めないと悟った日本側は、前述の複数のラインを使って、降伏の条件は天皇制を残すことのみだということをダレスに伝えた。 ダレスは暗号電報などによってこれをトルーマンに伝え、彼を早期和平へと動かそうとしたが、大統領は日本への譲歩を一切拒否した。 ソ連から対日参戦を引き出すことに成功し、原爆も完成の見込みが立っていたからだ。 ダレスはこれらの情報も国務省にいる彼の同志から得ていた。 したがって、5月以降ダレスの終戦工作は、天皇制存置、原爆投下・ソ連参戦防止を明確に意識したものになった。 ようやく7月21日になって、加瀬をして電報で「天皇制を残す唯一の方法はリスクを冒すことだ」というメッセージを本国の東郷宛に送らせることに成功した。 その意味は、には天皇制維持の保証がないままで敢えて終戦の決断をしていただきたい、そのような姿を見せれば頑迷なアメリカ政府指導者も天皇制を残すという妥協に踏み切るだろうということだ。 このほか、スウェーデン公使館からの、連合国側は天皇制存置を考えているというインテリジェンスなどもあって、昭和天皇は8月14日に国体護持を唯一の条件として降伏するという、いわゆる御聖断を下した。 戦後日本にやってきたダグラス・マッカーサー連合国軍総司令官は、天皇を戦争裁判にかけず、天皇制も残すことを決断した。 その理由は、天皇が御聖断を下し終戦に導いたことにあったことは、のちにマッカーサーの部下ボナー・フェラーズ准将などが証言している。 つまり、ダレスは原爆投下とソ連の参戦こそ防げなかったが、天皇が8月14日に御聖断を下し、それによって天皇制を存置させることに大きな貢献を果たしたのだ。 ダレスは、1951年にCIAの副長官になると、終戦工作の時の人脈を生かして日本人アセットの獲得に乗り出した。 その一人が高校(修猷館)、大学(東京商科大学、現一橋大学)、朝日新聞で笠の先輩だった緒方だった。 もちろん、ダレスは言論界にとどまらず、政界、経済界、自衛隊にアセットを獲得していった。 ダレスは戦中よりもはるかに強力なインテリジェンス網を戦後の日本に築いていった。 【PROFILE】ありま・てつお/早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授。

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『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』背広を着たスパイたち

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*問題* スパイが終戦間際に送り込まれたのは? 青 北海道 赤 沖縄 緑 岡山 ニュース検定の答え 答えは 赤 沖縄 第2次世界大戦の 終戦間際、陸軍中野学校によって 沖縄の戦地にスパイが 送り込まれ、秘密戦が計画されていました ニュース検定の答えの解説 答えの解説です。 日本軍が島民に移住を命令 日本最南端の、沖縄、波照間島に一人の男性がやってきました。 その男は教師と名乗っていましたが、その数か月後に沖縄で地上戦が始まると男は豹変、軍服に身を固めると、住民に「日本軍の命令だ」と西表島への移住を命令したのです。 反対する人がいれば、刀を抜いた…怖いね-----西里スミさん(当時の校務員) この男性と、当時の移住の状況を語るのは、当時、校務員をされていた、西里スミさん86歳の方です。 住民を移住させた理由 なぜ、住民を西表島に移住させたのか、本当の理由はわかっていないのですが、旧日本軍のための食糧調達のために住民を追い出したという疑惑があります。 というのも、住民に処分を命じた、牛や豚などの家畜が、旧日本軍が駐屯する石垣島に運ばれていたからです。 マラリヤで死者が続出 住民たちは島から追われた上、強制移住先の西表島ではマラリヤが蔓延していました。 一家全員が亡くなった人もいる。 疎開さえしなければ、あんなふうにはならなかった。 思い出したくないけれども 実際の戦闘だけでなく、沖縄には悲劇が幾重にも重なりあっているのです。 それではまた明日! ・「ことば検定」と「お天気検定」過去問はこちらから 台風情報 このあと台風への備えを十分に行ってください。 ・窓の補強 雨戸のある家は、閉めましょう ・植木は室内へ 強風が予想されています。 他にも、飛びやすいものは、しまいましょう ・生活用水の確保 お風呂にはため水をしましょう ・ハザードマップの確認 川の氾濫情報など、周辺の危険箇所に注意が必要です ・避難場所の確認 小学校、公民館など、地域の避難場所を把握しておきましょう また万が一の場合にも、落ち合う場所を家族で話し合っておきましょう ・防災グッズの準備 緊急時に必要なもの、生活用品などを集めておきましょう それでは、台風対策の準備を万全に!.

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終戦交渉の際、天皇制存続に奔走した米スパイのお話(2016年4月28日)|BIGLOBEニュース

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作者:斎藤充功 出版社:バジリコ 発売日:2013-07-30• ルバング島の任務で話していないことがたくさんある 2008年(平成20年)5月、都内の病院のカフェテリアでのインタビューで、小野田寛郎が筆者にもらした一言である。 しかし、その先は同伴者に遮られて聞くことが出来なかったという。 本書は日本陸軍において「諜報、謀略、宣伝、防諜」のノウハウを教えていた「」の卒業生たちの証言集である。 存在したのは日中戦争期から太平洋終結までのわずか7年余り。 当時は一般には知らざれておらず、隣にあった憲兵学校の生徒ですらそこがどんな施設か知らなかったという。 彼らは戦時中であっても、外出時に背広姿を崩さなかった。 戦後68年を経て、生存者は少なくなるばかりである。 ほとんどは90歳をこえ、病を抱えたり認知症によって何もわからなくなっていたりする。 しかしごくわずかではあるが、両親や家族にも隠していた任務や真実を、最後に明かしたいという人の声にこたえ、著者のは丁寧な聞き取り調査を行った。 中野学校の取材を長く続けてきた著者は、関係者の信頼を勝ち得ていた。 その結果が「証言一」に登場する第1期生の牧沢義夫である。 2009年、牧沢は94歳。 記憶はしっかりしており論理的な思考回路を持つことに驚きつつ、インタビューは行われた。 第1期生は18名。 徴兵中に甲種幹部候補生の試験に合格後、中野学校の前身である『後方勤務要員養成所』に入所し、卒業後は参謀本部で北米、南米の事情研究に携わる。 海外任地は外交官としてコロンビアとエクアドルに赴任、スペイン語を習得し、任務は重要戦略物資の日本への託送であった。 戦略物資とはプラチナ。 飛行機制作のための必需品である。 大量のプラチナを日本へ託送するのは、まさにスパイ大作戦。 本当にこういうことが行われていたのか。 太平洋戦争開戦後は帰国し、台湾軍参謀部情報班長の任に就く。 終戦後は部下が起こしたアメリカ軍の捕虜虐待事件の責任を一身にかぶり重労働30年の判決を受け、昭和21年10月から29年まで巣鴨プリズンに収監されていた。 あの時代、日本人は「天皇や国家に忠誠を尽くす」ということが至誠とさえれていましたが、中野の教育で学生に求められたものは国体イデオロギーよりも「個としての資質を求められました。 資質とは「生き延びる諜報員は優秀である」ということなのです。 そういう教育された男たちの証言は16。 たとえ同期であっても、どこにいて何をやっているかは当然知らない。 もう先が長くない命の最後に語る真実は凄惨だ。 捕虜の米軍パイロットの皆殺し、満州の関東軍でのソ連への偵察要員、無条件降伏を選んだ昭和天皇を廃し、新天皇を擁立しようとしたの関与、ヘロインを使った南方工作、登戸研究所と共同しての破壊工作兵器の試作、中国経済を混乱させるための贋札づくり、など専門性の高い危険な任務は、まさに事実は小説より奇である。 国の礎になるつもりで勇躍、赴任しても、その先では特別な作業を行わなかった者もいる。 生と死は紙一重という言葉を、身を持って知る人たちでもある。 卒業生と在校生の総数は2131名。 戦死者289名が明らかになっているが、卒業生の中には戸籍を抹消して偽名を使い、特殊任務に就いていた者も多く、生死の確認が取れない者も少なくない。 冒頭の小野田寛郎に戻る。 1974年、終戦後29年経って、フィリピンのルバング島から帰還したニュースは当時大きく報道された。 当時、私は高校生で、戦争なんて遥か彼方の歴史の一部であったのに、突然、リアルなものとして感じて父に当時のことを尋ねたところ、彼自身が特攻隊の生き残りだと知って驚愕したのだった。 その事実があまりに衝撃的で、小野田少尉のことも忘れることが出来ない。 小野田を始めとした中野学校二俣分校一期生39人はフィリピン各地に配属された。 終戦後、ルバング島に4名の日本兵が残留していることを知る。 地元警察に1名が保護されたのち、1954年、1972年、と残りの2名がレインジャー部隊や警察官に射殺された。 その2年後、小野田は救出隊に参加していた中野学校の元上官谷口義美少佐から任務解除の命令を口頭で伝達され、彼の戦闘は終わる。 果たして小野田は何を守り何の戦いをしていたのか。 著者は同期生の手記や、当時の小野田の扱い、アメリカのジャーナリストの調査などからひとつの推論を引き出す。 それは、いつの日か明らかにされる日が来るのだろうか。 本書の巻末には「陸軍中野学校破壊殺傷教程」が付属されている。 これは昭和18年、参謀本部の諜報活動担当が、戦闘地域、非戦闘地区で行うスパイ活動の具体的な施策を、中野学校に命じて研究させ完成した草案なのだそうだ。 テロ行為への反面教師とも成り得る、非常に緻密なものである。 陸軍中野学校は、もうあと少しで歴史の中に埋もれてしまう。 諜報のエリートたちが自ら語った真実は、長く残され検証されるべきだと確信する。

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