奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか。 戦国ちょっと悪い話37

Blog鬼火~日々の迷走: 2017年9月

奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか

将軍家の代がわりがあり、成富兵庫茂安は鍋島家を代表してお祝いの挨拶を行った。 ところが… 鍋島淡路守茂宗は、はるばる佐賀から江戸へと上ってきて愕然とした。 それもそのはず、彼は将軍家代がわりに対する祝いの使者としてやってきたのに、既に兵庫がお祝いを済ませてしまったのである。 茂宗は鍋島主水茂里の息子である。 茂里は亡くなるころに一万石の加増を申しつけられたが、それを断っていた。 そのため、息子である茂宗に改めて加増を行おうということになり、 将軍家代がわりの祝いの使者として役目を果たした時、約束の加増がつかわされることになっていたのであった。 折角の江戸上がりが無駄になった茂宗は、ショックによって身体を悪くし、 茂宗の母である天林はひどく嘆いてかきくどいたので、 茂宗の叔父である安芸守茂賢は、ある時法事の席で兵庫を掴まえてその事を責めたてたという。 兵庫は閉口して、この件についての詫びの証文を書き、この証文は茂賢から天林へと渡されたという。 (光秀の墓は洛東三条黒谷道より三町ばかり東の人家の後ろにあり。 大友軍の捕虜が、数々の首を見て、 「この中に吉良伝右衛門の首が見当たらないのは、不審なことです。 彼は大剛の武士、昨日のような戦いに臨んでは、生きて落ちのびることなど ないはずです。 どうか、詳しく点検なさって下さい」 と訴えるので、その顔の特徴を大村六太夫(井上之房家臣(黒田家陪臣))が よくよく尋ねてみると 「癩病者のような見苦しい顔で、武士の首とはなかなか見えませぬ」 との答えであった。 その特徴に大村は覚えがあった。 「それは、昨日私が討ち取った首であろう。 兜付の首を二つ取ったのだが、そのうちの一つの首はあまりにも汚く、 癩病のように見えたので、首実検にも出せまいと思い藪に捨てたのだが、 それを跡から家人が拾って帰ってきて、手元にある。 では、その首を持ってこよう」 大村は急ぎ自分の陣屋に戻り、首を持って戻った。 捕虜はその首を見て 「これこそ吉良伝右衛門の首です。 彼を討ち取られるとは、 さぞ骨が折れたことでしょう」 と言った。 吉良伝右衛門は、大友軍先陣の中にいて、黒田軍を追って浜辺へ行き、 そこから戻るところを討ち取られたということである。 この吉郎において家康に訴える者がいた。 これは故下野主(松平忠吉)の被官である。 家康はこれを見て「一人近寄って子細を申し述べよ」と言った。 すると、かの士十人ばかりが刀を指しながら走り寄ってきたので、家康が驚いて 「彼等を成敗せよ」と言うと、すなわち退散したので歩行の士たちがこれを追った。 その中の一人は抜刀して戦って死に、残りの者の行方は分からなかった。 慶長19年(1614)8月22日夜、大坂では大岡雅楽頭の邸宅において、大野修理(治長)、 木村長門、渡邉内蔵介と言った人々が、徳川との対決を決める談合が行われた。 しかしこの事を、織田常真公(信雄)の家臣である、生駒長兵衛、梅心の二人が知り、 23日、織田常真は片桐且元の元へ内々の書状が一封遣わされた。 これに返書はいらないとのことなので、、 且元はこの書状の使いに、家来である小島庄兵衛と申す者を添えて常真の元へ返した。 常真は小島庄兵衛が来ると、彼に直に言った 「市正(且元)の身の上に関する大事の事であるので、これから言う事を市正殿以外に 他言してはならぬ!其方、金打ちをせよ!」 金打ちとは、固い誓いの印として、金属製の物を打ち合わせる行為である。 武士は刀の刃、または鍔を打合せた。 「それは一体どういうことでしょうか?」 小島が尋ねると、常真は 「大阪城の本丸や、その他でも若き者どもが談合して、今度、市正の提言した三ヶ条の内、 一つも同意することは出来ないから、市正を騙して駿府に差し下し、その後で市正の妻子以下、 そして市正の弟である主膳正(片桐貞隆)も自殺させ、徳川への敵対の色を立てようとか、 市正を先々切腹させよう、などとの話し合いが行われている。 昨夜あった談合で決まったことは、市正に対し『御袋様(淀殿)が市正と対面して相談したいことが あるので本丸に参るように』と伝え、本丸に入った所を、廊下で取り押さえて切腹させ、 主膳は千畳敷にて殺し、その後市正・主膳の屋敷に攻め懸かって妻子、並びに家来の者たちを踏み潰し、 屋敷に火をかけ、その上で籠城の態勢を取ろう、と言う内容らしいのだ。 私はこれに驚き、市正を殺しては成らぬと思い、今このように、内通する事にした。 」 小島庄兵衛も大いに驚き 「忝い御意であります。 そしてこの件に関して、市正が承服出来るように、常真様のお墨付きを 頂きたいと思います。 」 「それは尤もなことである。 しかし徒に時間をかけてはいけない。 さあ、金打ちをするのだ。 」 と、常真から誓言をした上で、金打ちをし、小島も金打ちをした。 そして小島庄兵衛は急ぎ帰ると、且元に委細を伝えた。 これにより片桐且元は『にわかに病気となった』と言い出し、その日より大阪城への出仕を取りやめた。 手前ハ我より強きやつを相手にして首も半分取られかけ候をはね返し討取り申候。 あたまを十文字にわられ申候。 ) そのようにわめき騒ぎ立て、状況を説明することはなかった。 奉行達は困り果て、この事を奥村源左衛門殿に申し上げた所、 「ここは我慢して、そのままにしておけ。 あの上村孫市が物の道理の解る人間であったら、今の私と同じ程には 取り立てられていただろうに…。 」 と言い、このため上村孫市には処分が下らなかったという。 これは別所三平から聞いた話である。 (微妙公夜話) 面倒というか頭がおかしいと言うか、前田家にも困った人が居たんですね、 というお話。 脇坂中務、朽木河内守、小河左馬之助も秀秋に従って同所へと来た。 秀秋はかねてからの存念の通りに、徳川家康に反忠すべしとの内意であった。 そして脇坂、朽木、小河も、藤堂佐渡守(高虎)を頼み、東軍に味方する旨を 密かに申し出ていた。 石田三成達は秀秋の動向を心もとなく思ったのであろう、各々相談して、 滝川豊前、矢田半兵衛を使いとして、秀秋に四ヶ条の書状を遣わした。 その内容は 『 一、秀頼公が15歳になられるまで、関白職、並びに天下は秀秋公へお譲り渡す事。 一、秀秋公が上方滞在のための賄いとして、播磨国をお渡しいたす事。 一、近江において、10万石を稲葉佐渡守に、同じく10万石を平岡石見守に(何れも秀秋重臣) 秀頼公より下される事。 一、当座の音物として、金子300枚を稲葉に、同じく300枚を平岡に下される事。 』 この書状の最後に誓詞があり 『九月十四日 安国寺 形部少輔 治部少輔 大蔵 小西 秀家 』 と署名されていた。 (關原始末記) 小早川秀秋を何とか繋ぎとめようとした、三成たちが差し出した書状についての話である。 侍や小姓は皆退散し、 たった三人が高野山まで従った。 しかし、そのうち二人もまもなく退散したという。 信盛は高野の南東の相江というわずかな所に居ついた。 金子もかろうじて十枚ほどを持参するだけだったという。 ある時、山岡景友は思い立って信盛を訪問し、平井安斎もこれに同道した。 信盛は対面して涙を流し、とても感悦した。 二人が信盛を訪問したことを、その頃の各々が感じ入ったという。 天正十年正月十六日、信盛は紀州熊野の奥で病死した。 信長は気の毒だと言って、 信盛の子甚九郎を召し直し、織田信忠に奉公させた。 その内容は、大谷紀之介(吉継)という関白殿(秀吉)の小姓衆の一人が、悪瘡を気に病み、 千人殺してその血を舐ればその病は平癒する、と信じているため、そのような事をやっているのだと 云々されていた。 これは全く、世上の風説である。 今日二十一日、この事が関白殿のお耳に入り、 「このような風説が広まっているのに、それを報告しなかったのは曲事である! 町奉行の者たちは殺すべきであるが、今回は、命だけは助けてやる。 」 と、大坂の町奉行の3人を、追籠(自宅に閉じ籠めて謹慎させること)とした。 関白殿はこのことを仰せ付けになって、今日御上洛された。 そして、 盗人事 人ヲ切事 博奕事 酔狂事 徒者事 の五ヶ条を禁制とし、それを高札2枚にして掲げた。 この時高札には一つにつき金10枚が打ち付けられた。 2枚の高札に、金20枚である。 そのような中、先の千人斬りの容疑者と思われる者が、大量に捕らえられたと 噂された。 二月の二十七、八日にはこの真犯人とされるものが顕れ、 三月四日ごろに処刑された。 この者は、宇喜多次郎九郎という人物であったという。 この宇喜多次郎九郎が処刑されるまで、あれは大谷紀之介の所業であるという風聞は 一円に語られていた。 (宇野主水記) 本願寺顕如の右筆、宇野主水の記録した、大谷吉継の千人斬りの風聞についての顛末である。 その誓書に曰く 一、秀頼公、十五歳に成られるまでは関白職を秀秋卿へ譲り渡すべき事。 一、上方の御賄の為に播磨国一円を相渡すべく。 もちろん筑前は前々の 如くなるべき事。 一、近江に於いて十万石宛、稲葉佐渡守、平岡石見守両人に、秀頼公から これを下されるべき事。 一、当座の御音物の為に黄金三百枚づつ、稲葉・平岡にこれを下される べき事。 右の条々、違変申すものに於いては 神文はこれを略す 九月十四日 安国寺 判 刑部少輔 判 治部少輔 判 大蔵大輔 判 摂津守 判 秀秋卿 今これを吟味してみると、秀頼公十五歳までは秀秋卿に天下を譲るとある べきなのに、関白職と書いているのは怪しい。 ただし石田・安国寺など天下を知る人は、その子孫まで関白であると心得て このように書いたのであろうか、そうでなくては官職を知らない後世の偽書 であろう。 その上、瀧川豊前は阿野津の城番としてその頃には伊勢国に居たと聞く。 これでは矢田半右衛門とともにこの使者を勤められる筈がない。 それなのに古主である酒井讃岐守の選ばれレた始末記 關原始末記 にも、 この誓書が載せられ、矢田半右衛門が矢部善七と書かれている。 あれこれ疑わしいので本条を除いてここに記す。 この書の実否を知る人が 居れば聞いてみたいものだ。 それについて、一条車之町は内裏の近所、六丁の内にあるのだが、この謀反人はそこに家を借りていた。 また実相院の辻は同じ町同然の地域であったので、この両町の者どもが、佐久間甚五郎について 届け出なかったことは仔細があるに違いないと、45,6人が搦め捕られた。 そのうち内裏の公人、出納台人、並びに公家方の殿原も27,8人が捕らえられた。 彼らは小野木清次が城代を勤める淀城の天守に留め置かれたという。 また前田玄以よりの申し付けで、さきの両町から更に20余人が搦め捕られ、二条蛸薬師に籠を作り そこに入れ置いたという。 この時、当門跡(本願寺顕如)より。 捕えられた公家の殿原の内に門徒の者があるので、 淀城の小野木清次に彼らを解放するように頼んだが、小野木は 「私一人の心得ではどうにも出来ません。 」 と答えた。 門跡からの御使として河野越中が交渉したものの、相調わず、6月15日頃に寺に帰られた。 (宇野主水記) 京都で起こった、秀吉への謀反未遂事件についての記録である。 これを馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は、 「敵軍は四万、我が軍は一万です。 今回はお引き下がりになって信長が帰陣の上で来秋出張なさり、 所々を残さず放火し、その上で苅田以下を申し付けられれば、三河は亡国となるはずです。 ですから一、二年の間にご意向を行われるとよいでしょう」とたっての諫言をした。 しかし、勝頼は承諾しなかった。 その上、長坂釣閑が「合戦を遂げられるのがもっともです」 と申し上げたので、いよいよ合戦に相定まったという。 この釣閑は工夫人なので武田信玄が大細を相談した者であった。 とりわけ弁舌に通じており、 時に六十三歳だった。 備中で宇喜多と対峙していた毛利勢には、直家の病状が悪化したとの風聞は聞こえてきたが、 その実態を正確に知ることは難しかった。 そういった所に同年極月(12月)、備前御野郡浜野村の窮人が毎朝絹に大量の血が付いたものを 拾ったと言って売り物に出していることを、毛利の目付け(スパイ)が察知し報告してきた。 これを聞いた備中の侍大将は不審に思い、それは宇喜多直家の下血が付いたものだと気がついた。 そこでその状況をさらに注視させたところ、同10年正月9日朝より、大量の血が付いた絹が 市場に出ることはなくなった。 そして備前に潜ませた目付けの者からは、宇喜多直家が正月9日に死去し、法名は涼雲星友居士、 密かに平福院において法事が行われた、との報告が届いた。 この情報は中島大炊助より、吉田へと届けられた。 (中國兵亂記) 毛利が探知していた、宇喜多直家の死去についての情報である。 そうでなくても泳ぎたいと思っていた若侍達は一斉に川に入り、様々に手練を尽くして 泳いでいた中に、佐渡与助というものがあった。 しかしこの佐渡与助、水泳不調法にて沈むこと度々であった。 ちょうど水野十兵衛という侍が、小舟に乗って近くに在ったが、これを見て声をかけた 「与助よ!叶わずば船に取り付け!」 この時、頼宣は河原に床机を立てていたのであるが、この十兵衛の言葉を聞いて、 大音声で怒鳴った! 「やあ、十兵衛のタワケめが!士(サムライ)に対して『叶わずば船に取り付け』などと 言う者があるか!?そんな言われ方をすれば、士たる者、死んでも船に取り付くものか! たわけた事を言って、惜しき侍一人を殺すな! 同じ意味であってもそう言う時には、『与助、船に取り付いて休め』と言えば、 与助も船に取り付くことが出来るものだ。 この十兵衛の大たわけめ!!」 そう、叱りつけたという。 本が薄くなるな。 そんな本多正重であったが、二代将軍となった徳川秀忠の下に仕えるようになってからは、 少しく着実、謹厳の人となった、という評判が聞こえてきた。 これを知った徳川家康は正重を呼び出し、こう声をかけた 「三弥よ、この頃はすこし嗜みの心が生ぜたか?随分拗ねることが無くなったように聞いたが。 」 こう言われて正重は、目を丸くして答えた 「将軍様(秀忠)は誠に御奉公しやすい方です!あのようなご主君に拗ねごとを申すものは、 気違いに違いありません!」 (将軍様は御奉公いたしよく候。 あのごとき主君にすね申す者は、気違にこそ候へ) これを聞くと家康、笑い出し 「又、三弥の持病が起こったぞ。 」 と言われたそうである。 徳川家康の家臣である青年は、諸大名の家臣同士の寄り合いで 次のような話を聞いた。 前田利家に仕える侍が自分の待遇に不満を持ち、主家を去ろうと 考えていることを口にすると、その場に居合わせた幾人かの人々は、そのようなことはやめた 方がいい、と忠告した。 なぜなら前田利家は息子ととも茶の湯の席で太閤秀吉の命を奪うことを 計画しており、これがうまくいったのならば前田利家父子が天下の主になるだろう。 そうなれば 前田家に仕える彼も大きな領国を与えられるはずだからだ、と語った。 これらの話はすべて冗談の作り話であったが、徳川家康の家臣である青年は本当のことと 信じ込んでしまい、思慮を失って政庁にかけこんで訴え出てしまった。 取り次ぎの者から話を聞いた秀吉は薄笑いをして、ただちにこの青年の身柄を前田利家に 引き渡すよう命じた。 前田利家は、なぜそのような嘘で太閤殿下の耳をわずらわせたのか、と 尋ねると、徳川家康に仕える青年は正直に寄り合いの席で聞いたと答えた。 事情を調べた結果、 単なる作り話とわかると、青年は足枷をつけられ、ついには彼の父親とともに連行され、一緒に 磔になって処刑された。 九兵衛 下条氏長 などが深入りして危うい目に会われた事もあったが、 大将 下条頼安 はつつがなく、一村たりとも取られず落ち着いていた。 このような所へ松尾の菩提寺である上川路の開善寺と吉岡 下条家 の 祈願寺である南原山文永寺が相談し吉岡と松尾を和睦させようとした。 幸い松尾に御息女がおられたので、御縁組あればと両寺がとりもち 首尾よく天正11年12月に御祝言が済み、入魂の場と相成った。 明くる年の正月20日、舅に対して頼安公が心を許して年頭の礼に訪ねた ところ、松尾はこれを油断させて討ち取った。 昔から聟を討ち取る例は多いとは言うが、そうであっても残念の次第 である。 ところが、忠勝の嫡子平八郎忠政はこの年十六歳になったが、父に向かって、 「父御は正しく徳川殿の侍大将でございます。 義経の侍の兜が何ほどのことがありましょうか! すぐにお返しになってください!」と、怒った。 武勇にもならぬ無益の 戯れであるのみならず、終には毒にあたって命を失うこともある。 仙台の伊達政宗は猛将であったが勇気が余っていたのか、 いかもの喰いをしておられた。 何某というものがいかもの喰いで政宗に挑んだので、一日その人 の宅へと訪ねたところ、鼠の赤子を濃い味噌汁にして勧められた。 政宗はこれを賞美して食したが帰宅してから大食傷となり、まさ に死に至らんとしていたが、家中の医師高屋喜庵という者が撥毒円 という家法の毒消しを飲ませたので命を全うされた。 その賞として喜庵に禄千石を賜ったと言う。 しかしそれは、物心ついた子供が恐れるのも当然なのです。 何故かといえば、未だ幼き子供の時分、母の懐に抱かれて泣いているのが、どう慰めても止まない時は、 母は怒って 「日の本の政宗公が今この国に来るぞ!泣いていると取って行かれるぞ!』 と脅かすのです。 するとその子供はたちまち泣くのを止め、母に取りすがって顔を隠し恐れるのです。 こういう事は、古今にないことです。 」 そう語ったそうである (政宗公御名語集) 伊達政宗が中国人から異様に恐れられていたらしい、というお話。 秀吉公との御参会では 大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。 この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。 その後御対談の時に、秀吉公は御意に 「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように 日本を従え高位も備わった。 しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。 この事に関しては私は、輝元に劣っている、」 と仰った。 隈本城内の桐の木に冬瓜のような果物がたくさん生じたのだ。 諸人はこれは珍しい事だ。 この先はどうなるのだろうかと、そのまま 熟するまで置いておくことにした。 やや熟する頃になってこの果実を 内から鼠が食い破って出てきた。 人々はいよいよ怪しんで、この果実をことごとく切り割ってみると、 中には全て鼠がいた。 その鼠をことごとく打ち殺して捨てると果実の中に鉈が一つあった。 これを見て不思議奇怪な事だと言いあうばかりであった。 しかるに翌寛永9年6月に肥後守忠広・同嫡子豊後守光正父子ともに 配流に処され領国を除かれた。 あれはこの前兆であったのかと皆がささやきあった。 そんなことは解っているんだ。 だけどな、よく分別してみろ。 そういう事を言っている連中をだ、城に引き詰めにして 召し使って、その上休息のために暇を取らせて、心のままにしろ、なんて言えば、 そいつら朝や夕方のうちから寝てばかり居るだろうよ。 俺も公儀から大国を拝領して、『家の殿』って仰ぎ見られる事も多いけどさ、それでも 所詮世上の習いからは離れられず、江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら 1年間を漸く暮らして、急いで帰国したらもう、『一日も屋敷の中に引き込んでいたくない!』 ってくらい思っているんだぞ?そういうわけにも行かないんだけどな。 それからな、折々に出かける事には、ちゃんと理由もたくさん有るんだ。 国を下知するほどの者が屋敷の中に閉じこもったままでいたら、諸奉公人の高下何れにも その奉公の善悪を知ることが出来ないだろ?そうなると結局、迷惑するものが多いわけだ。 だいたい主君が自分の領国の人々の様子を見ないのなら、何を以って人をよく知り、国を沙汰すれば いいんだよ? この他にも様々な理由はあるが、語り尽くせないな。 まあとにかく、俺が「出かけたい!」って言えば 1年間江戸で気詰まりしていたことを思い出して、苦労なことだと思っても供をしろ! それに、俺はもう七旬(60代)だぞ。 先がないんだよ! そういうことも全部思い合わせて俺によく奉公して、時々は慰めてくれよ。 俺も年積もってしまって、明日をも知れないんだぜ? 俺が死んだ後にいろんな事を思い出して『あの時ああすればよかった』『ああいうことはしなければよかった』 なんて言い出しても、俺の役に立たないんだよ! いいかお前たち、心を俺の年齢に引きあわせて考えるんだ。 」 (我れ年積れば明日をも知らず、なきあとにて万づ心におもひ出し、かくはあるじきものを、 かくはすまじきものをと語りだしても、用に立つまじきなり。 心を我が年に引合せておもへ。 慶長五年九月十四日に、家康は正重を呼んで「お前の父祖は数度の戦功があり、 お前もまた若年にして今度の戦場に従うことはとりわけて健気である。 かならずしも危うい働きをせずともよい」と懇ろに言葉をかけられ、御盃を賜った。 正重はこの上意をありがたく感じ「明日戦場にのぞんではきっと一番槍の高名を遂げる」 と心がけ、十五日のいまだ合戦の始まっていない時に敵陣近くへすすんで行き、 朱具足に猖々緋の胴肩衣を着た武者と槍を合わせ、ついに突き倒して首級を獲た。 ところが、その働きは抜け駆けに当たるとして家康の勘気を蒙ってしまい、 結城秀康の執り成しによって許された。 亭主は4人、太閤様、家康公、加賀の利家、そして私であった。 その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、 柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。 翌日、数寄屋の場所などを4人がクジをとって決め、担当の数寄屋の掃除など準備をし、 台所もそれぞれに設置してあったので、出す料理についても互いに隠し合うように決めた。 客は一体誰なのか一切知らされていなかったが、茶会の始まる直前に仰せ付けられたのが、 私の担当する数寄屋へは、佐竹義宣、浅野弾正(長政)、加藤肥後(清正)、上杉弾正(景勝)などという、 私が絶交した連中ばかりを客に仰せ付けられたのである。 (中絶の衆ばかり客に仰付けられ候) そういう事なので何か変わったことをしたいと思ったのだが、にわかの事なのでどうしたものかと悩んだ、 その折はつまみ菜の旬で、御汁につまみ菜を調理していた。 これだ!と汁を沸かし返して熱々にし、 先に作っていた汁が暫く置いていたため冷めているので、客にも迷惑だろうと、このぐつぐつに煮えた汁と 素早く取り替えて出した。 この御汁を吸った客達は皆、一口も飲み込めず吐き出したが、又同じように御汁を出し、 間もなく盃酒を出したため、客は皆、終始迷惑した様子であった。 さて、4ヶ所の数寄屋での茶会が終わり、御学問所へ再び4人の亭主が集まり、それぞれその日の 客の有り様などを段々と語り、私の番になって 『今日の客は皆々、私にとって一段とよく知った人々でしたので(一段と知音の衆に御座候間)、 何か特別な馳走をしたいと考えましたがそうもいかず、時期ですのでつまみ菜を御汁にして 熱くして出した所、口を付けた途端に火傷をしたようで、暫くは箸にて唇をかかえ、痛みに舌打ちを していましたよ。 』 と物語した所、太閤様は 「さてもさても!したりしたり!」 と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて 大笑いされた。 その後、翌日の客の御相談をしたのだが、太閤様がお考えになったのは、天下の諸将を 様々に組み合わせ、またいろいろ手を加えられ、絶交している者達の仲をご自身でお直し されようという御奥意があったのだと、これは後に気がついたことだ。 >と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて 大笑いされた。 同僚は素手で立ち向かい、額に傷を受けながらもその者を取り押さえた。 これに家康は「健気な振る舞いではあるが、白刃を持つ者に徒手で向かうのは危険だ。 このような者を誉めて遣わせば後にあやまって死ぬ者も多いことであろう」と言って、 賞典には及ばなかった。 徳川家光が鷹狩の折に、従士が水に飛び込んで雁をとらえたことを賞さなかったのも、 このような家康の意志を踏襲してのことであろう。 私は鷹狩に出たのだが、私の鷹場と公儀の鷹場の境まで 進んでも、獲物が思いのほか少なかったので、公儀の鷹場にこっそり忍び入ってな、そこで 鳥を3つか4つ獲り、その上鶴まで合わせて獲った。 が、その時だ。 私の鷹場の方から、大勢が鷹を使っている様子が見えた。 不審に思っていると、 それはなんと家康公の鷹狩の一団ではないか!これはいかん、見つかったら怒られる! 我々は慌てて大騒ぎし、鷹と鳥を隠して逃げ出した。 ところが家康公は御馬を早め、空堀の中に入られ、人馬を下知して皆堀の中に呼び込み、 堀に紛れて急ぎ御退きになられた。 私はその時、御退きになった先に鳥があってお急ぎになったのだと思ったが、とにかく我々は このラッキーに竹林に紛れて隠れ逃げた。 その後、家康公が江戸にお帰りになったので出仕すると、私に仰ったのは 『伊達殿、あの時私は其方の鷹場に盗み入ったのだ!しかしそこで其方の居るのを見つけ、 これはまずいと、つい堀に紛れて逃げてしまった。 こんな事は私の一代にないことだ! しかしこの様に降参した上は、どうか許してほしい。 』 なんと謝罪されたのだ。 私はこれを聞いて 『さては、そういうことでござったか!早く見つければ是非捕らえて曲事に出来たのに! …ではありますが、実は私も、その日は公儀の御鷹場に盗み入って、家康公の御成を見つけ、 慌てて逃げ退いたのです。 』 と正直に申し上げた。 すると家康公は 『さては、そう言う事だったのか!そういえば今考えれば、其方も竹林の影に隠れていたなあ。 私に気を使って隠れたのかと思い、猶急いで息を切って逃げてしまったよ。 あの時互いにこの事を知っていたなら、逃げながらも息を休めて、ゆったりと退けたのに。 とにかくこの事は、双方に咎ありだな!』 そう、どっとお笑いなされた。 御前に伺候の衆も、腹を抱えて爆笑していたよ。 」 と物語されたのである。 (政宗公御名語集) 家康と政宗、鷹狩でお互いにヤバイと思って逃げ出すというお話である。 しかし時代が変われば趣きは変わっていくものである。 直茂さま勝茂さまの時代には、 大事であろうと小事であろうとも、 両殿様は細かいところまで気配りして御指図なさるから、 我々仕える者どもは御指図通り勤めあげるだけでよかったものだ。 分からないことがある時にも、 両殿様にお尋ねすれば、こちらの疑問点をよくお見通しされ、 わかりやすく御教えをいただけたものだ。 このように両殿様の時代の奉公は容易で楽なものだった。 これに三成は 「いやいや、名も無き下人である。 治部ではない。 人違いをされては困る。 」 と言い逃れようとしたが 「見忘れられましたか?田中傳左衛門です。 関白殿(秀次)の元で幾度か見参いたしました。 」 そう言ってこれを押し捕えた。 その場所は近江の古橋というところで、先ずこの辺りの寺に伴い、そして陣所に連行して 兵部少輔(吉政)に注進した。 このとき三成は、1尺3寸の放し目貫の脇差を佩び、柿色の帷子ひとつを着て、米5合ほどを 袋に入れて腰につけていた。 その脇差の目貫は黄金の駒であったが、裏側には目貫はなかった。 これを見て田中傳左衛門が聞いた 「これはどうして、裏の目貫がないのでしょうか?」 「家人が一人つきまとったので、この目貫を抜いて与え、これを印として大阪城に赴くようにと 言って、落としてやったのだ。 」 そして三成は傅左右衛門に向かい 「父である石田木工、その他の人々はどうなったのか?もし知っているのなら教えてほしい。 」 と尋ねた。 傅左右衛門は 「木工殿は妻子を刺し殺し、その身は潔く御自害をされました。 その他の方々も同じ道を取られました。 」 そう申し上げると、三成は心良さげに笑われ 「ざっとすんだ。 」 と言った。 これを見て傅左右衛門は思わずこう尋ねた 「大事の合戦に敗れたというのに、どうして御自害されず、このように囚われの身となったのでしょうか?」 この言葉に、しかし三成は 「これはお前の解るような事ではない。 こう言う時に潔く自害などするのは、お前たちのような者共が することだ。 私はそんな事は出来ないのだ。 」 そう嘲笑ったという。 この時、伊東家家臣山田次郎三郎は、島津方の和田民部少輔を討ち取ったが、 この和田民部少輔の子である助六、この時18歳が父の討たれたのを見て、駆け入って 山田と刺し違えようとした。 しかし助六の郎党が一人、鎧の袖にすがりついて言った 「どうか命を全うして、亡くなられた父君の遺蹟を立てて下さい!」 そう叫んで制したが、助六は 「今このような事態に直面して、誰が一人逃げるようなことがあるか!」 そして郎党を振り払い山田に切り懸った。 しかしこれを、山田はすかさず取り押さえる。 だが、この者が年少であることを察すると、 若年にしてその志が勇なることに感じ入り、これを立たせ、そのまま帰らせた。 ところが、同じ伊東方の長倉次郎右衛門尉がこの様子を見ていて、帰ろうとする助六の後を追い駆け、 情けなくもその首を打落した。 後でこのことを聞いた人々は、山田次郎三郎の情けは、古の熊谷が敦盛を助けたことにも劣らぬ、 と言い、長倉次郎右衛門尉のやったことは、非常に浅ましいことだと批判した。 長倉次郎右衛門尉は、今の長倉喜多郎佑栄の先祖である。 長倉佑栄の家に今も言い伝わる、和田民部の祟りというのは、この話が理由なのである。 舞が終わった時、家康は機嫌よく近臣たちと物語をしながら 「武蔵坊弁慶は世に優れた人物だな。 今の世に弁慶の如き人物は無いだろう。 」 と言い、近臣たちも、そうですなあ、などと答えていたところ、そこに控えていた本多正重が この家康の言葉に気が触ったらしく、大声を出して 「例え弁慶に似た臣下が居たとしても、今の世に判官(義経)に似た主君はございません!」 そう言い放つと、退出していったのだという。 頼宣は「どうして其の方のことを、きっと他の年寄どもよりもすぐれた分別だ、 と思ったのだろう」と言うと、三浦長門守を呼んで、 「加納はこう申すが、わしはこう思う。 どちらがもっともだと思うか」と尋ねた。 これに三浦は「思召しの事が御もっともです」と申し上げた。 その時、五郎左衛門が三浦に向かって「殿の思召しが御もっともにお思いとのことですが、 それに偽りがないのならば、今御前で『仰せ御もっともに存じ奉る』と誓言を立てて、 きりっと申し上げられよ」と言うと、返答できず赤面したという。 その始まりはこうである。 伊東右衛門佐(伊東加賀守の弟)には男子が二人あり、嫡男を駿河守、 次男を金法師と呼んだ。 嫡男駿河守の師は、那珂の平等寺であった。 次男の金法師は、父の兄である加賀守の嫡男・源四郎と養子の縁組をして、加賀守家の 名跡を次ぐこととなった。 ところで、養父である源四郎の師は、都於郡の一乗院であったため、金法師にもここで 教育を受けさせようという事となったが、これに、金法師は三河守の弟なので、兄と同じく 平等院で教育を受けるべきだとの反論が出た、論争となった。 これを聞いて都於郡では怒りが渦巻き、年少の者達36人が互いに連判し、この議論が決裂し 対決となったら、自分達は命をかけて戦う!との姿勢を見せた。 しかし伊東家の主君である伊東義祐はこれを聞いて不快感を示し、連判をした者達は 身の置きどころが無くなり、財部城の落合氏を頼んで落ちていった。 彼らの中心人物は、財部城主・落合藤九郎の子・落合丹後守、湯地又四郎、稲津又次郎、 野辺孫二郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、 八代新十郎、福永新七郎、と言った者達であった。 このような中、野辺孫二郎が財部城で、密かに小山田掃部助に向かってこのような愚痴を言った 「私達が地元から逃げこのような事になったのは、全て落合丹後のせいである!」 そんな事を終夜に渡って言っていたのだが、その落合丹後がたまたま物陰からこれを聞き、 大いに立腹し 「互いに恨みの無いよう、一味同心の連判までしたのに、今更私一人を恨むとは、 これこそ遺恨である!」 そう言い放つとその事を話していた二人をたちまち討ち果たした。 この騒ぎに何事かとやってきた杉尾甚兵衛の、落合丹後によって手傷を負った。 そうして落合丹後が考えたのは 『私は流浪の身となっても、いつか伊東家に帰参したいと考えていたのに、こんな事に成ってしまって、 もはやとても命の助かるものではない。 こうなれば(伊東義祐のいる)佐土原城に騙し入って、義祐様に一刀恨みを晴らしてくれよう!』 そう言って佐土原へと取って返した。 ところがこの落合丹後の錯乱は、いち早く佐土原にも報告され、落合の姿が見えると たちまち騒動となり、すぐさま取り囲まれ斬り合いとなった。 落合丹後は大勢を負傷させ、自信も数箇所傷を被ったが、島原右近と組み打ちとなり、 右近が組み伏せられ今にも殺されんとした所で、杉田宗伴が馳せ懸り、ついに落合を刺殺した。 これで漸く、この徒党の乱は鎮静したのである。 (日向纂記) 領主の養子をどこで教育するかというだけのことで、大勢の死傷者まで出す騒ぎとなった事件の顛末である。 しかし装束のことなどもあったので、最初は辞退をしたのだが、どうしてもと言う事で 断りきれず、誘いを受けることとなった。 そこでは終日能を興行していて、京童たちが貴賎かまわず群衆をなし、御庭前に畏まっていた。 ところが、政宗は次第に酒が回ってくると、自分の座を立ち近衛公の隣に座り込み、 なんと近衛公の烏帽子を掴むと 「公家ほどぬるきものはない!」 と言いながらあちらこちらと烏帽子をねじ回した。 完全なからみ酒である。 この様子は庭前にいた群衆たちも目撃して肝をつぶし、「ありえないことだ」と 思ったという。 \: : :';::ハ. ヾ ヾ. ';ハ \ : : : : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: ';ハ : : : : : : : : : : : : : : :',: :',ハ、 誘. な : : : : : : : : : : : : : :! ハ っ ぜ : : : : : : : : : : :! て : : : : : : : : : :! ト、 ま ん :\: : : : (xx:. `ヽ、 :! : : : :. :::. : : : :. : : : : :  ̄ ̄. ::: : : : :. : : : : :. :: 〉--〉ー 、 ::::::::::::i::::::\: : :. ノ、ヽ:. (伊東崩れ) さてその頃。 伊東家重臣である米良四郎右衛門尉の子、弥八郎と、米良四郎右衛門尉の息子、次郎三郎の 両人は、島津の人質として薩摩の鹿児島に在ったが、伊東家が米良四郎右衛門尉らが中心と成って 豊後と通じ、大友勢が日向に進攻するという企てがあることが鹿児島に聞こえ、島津家においては、 その人質を取り逃がしてはならないと、彼らを幽閉し6人の番兵をつけて油断なく監視させた。 二人は自分たちの監視が厳しくなった理由を伝え聞くと、密々に話しあった 「我々の父は、私たちのことを思わぬということはないだろうが、しかし親子の情も、 累代の君恩には代えがたいものだ。 国外に出た主君を本国に入れようとの志を持つのは、武士ならばそう有るべきことだ。 ということであれば、父たちは我々に構わず行動するので、我々の命が奪われるのは、 どうしても逃れられぬことである。 であれば、ここから逃亡をしては見ないか?」 そう決めると、彼らは番人が油断した隙を伺い、その6人の者たちを惨殺し、夜に紛れて逃げた。 元来彼らは三城で生まれ育ったので、舟に乗ることが巧みであったため、密かに船を盗んで これを自ら櫓を漕いで対岸に渡り、陸路に上がると昼は隠れ、夜は進んでようやく鰐の口を逃れ、 7日目の夜に佐土原に到着した。 ここには彼らが親しい者が居たので、一飯を乞うて数日の疲労を休めた。 ところが、頼みがいのないのは世の習いである。 この親しき者はその頃、どうにかして新しい日向の支配者である 薩摩に忠節を立て奉公の下地にしたいと考えていた折であったため、二人を天の与えたものと喜び、 底意の見えないように彼らをもてなし、やがて疲れから熟睡したところを伺い、これを縛り付けて 薩摩へと差し出した。 本当に、情けのないことである。 二人はそれから再び鹿児島に引き出され。 福昌寺において殺された。 しかしこれを聞いた彼らの父である米良四郎右衛門尉、米良四郎右衛門尉は、 この上はもはや少しも心に掛かることは無いと、益々伊東家への忠節を励んだという。 その際、追撃する井伊直政を狙撃したのが柏木源藤である。 この源藤、直政を狙撃落馬させたときに名乗りを上げるも思わず主人の名を出し 「川上四朗兵衛、討ち取ったり」 と名乗った。 郎党の悲しさか自分の名を名乗らなかったのである。 ときに源藤22歳の頃であった。 その後、主君義弘には功を認められ、源藤は義弘の隠居所である加治木で暮す。 しかし『本藩人物史』によれば源藤は困窮し町人になり、子孫は断絶したとある。 どうやら出家し諸国放浪の旅に出たようであり、 一世一代の場面に自分の名を出せなかった鬱屈した感情があったのかもしれない。 この時、押川郷兵衛は義弘本隊とははぐれ伊吹山中で東軍に生け捕られてしまう。 しかし処刑される直前、島津家の取次をしていた旧知の山口直友が郷兵衛を見つけ引き取った。 直友は郷兵衛に服や刀を渡すが、郷兵衛はそんな直友の元から抜け出し京の近衛家に駆け込む。 その後、逃げ帰った薩摩では主君義弘より50石の加増と「郷」を「強」に変え強兵衛への改名を命じられる。 そんなこんなで主君義弘の信頼を勝ち得た強兵衛。 その後の強兵衛は義弘の命により巡礼姿で諸国を行脚し、関ヶ原で戦死した島津豊久の捜索などをおこなう。 つまりは義弘の忍びとして働いたようだ。 強兵衛の忍びの仕事の1つとして義久派家老平田増宗暗殺がある。 慶長15年6月、川内と鹿児島を結ぶ土瀬戸峠で平田を狙撃し暗殺したのだ。 『本藩人物史』によれば強兵衛は寛永6年に59歳で亡くなるまで「人を殺害すること百六十余り」と書かれている。 その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。 そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、という話が聞こえてきた。 稲津は「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。 大名として旧領に復帰されるからには、 たとえ死すとも、帰参しなければならない!」と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、 この決意を話し 「我が心底は以上の通りである。 お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に 連れてくるのだ。 私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。 」 そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。 そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる 時期に、稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。 稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。 ところが、である、 稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、 殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、1日早く 薩摩についてしまったのである。 この注進を受けて島津家では、『この処分を寛大にしてしまえば、これまで我が家に降参した者達に 非常な悪影響を与える。 』と考え、稲津重房の母と妻を殺した。 稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。 のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。 享年37歳であった。 (日向纂記) 稲津重房帰参における、悲劇についての逸話である。 それを知ったキリスト教の宣教師は、若者たちを従えてその洞窟に向かい。 、取り出せる仏像は取り出し、後は放火して焼き尽くした。 そしてキリスト教徒の少年たちに仏像を運ばせ、有馬の住民達の面前で、仏像につばを吐きかけるなど冒涜し、最期にそれらを皆 打ち壊し薪にした。 (ルイス・フロイス「日本史」) 有馬晴信の領内における仏教弾圧の模様である。 日本では本地垂迹のように神も仏も仲良くというのが基本。 17 ID:SVKurCdt0 平氏…すごく範囲が広い。 平将門や平清盛や、平姓を名乗っていない北条氏とかも含まれる。 桓武平氏以外もいる 平家…範囲が狭い。 平氏の中でも、伊勢平氏と言われる嫡流の家系の人物たちをいう。 人々これを見ると、なんとそれは錆が点々とし、久しく研いでいない物のようであった。 木村重茲はこれを見ると大いに怒り、その部将を呼びつけ怒鳴りつけた 「今は戦国の世上であるのだから、常に刀槍に心を用いなければならない! 一旦事起これば直ちにこれを持って敵陣へと迫らなければならないのだぞ! それなのに汝の槍身はこの様に錆び腐っておる!これはもののふの大恥辱ではないか!!」 そうして、従者に自分の槍を持ってこさせ、この部将に指し示して高らかに言った 「汝、大名の槍を見よ!このようにして初めて戦場に役に立つことを得るのだ!!!」 と、穂鞘を外す!が!…何という事であろう、その刀身、盡く腐食し、一面赤鉄のような有様であった。 重茲はこれに大いに恥じ、暫くしてから言葉の様子を改め 「だ、大名の槍であっても、尚このように錆びやすいのだ!いわんやお前たちの槍などは、 一層注意して常に鋭利にしておかねばならないのだぞ!」 そう言い捨てると騎馬を早め、急いで伏見に入った。 しかしこれにより、部下の兵士たちは互いに、この時の重茲の様子を真似て「大名の槍を見よ!」 と言い合い、一時の物笑いとなったという。 古老の伝説では秀忠公が日光御社参の時に正純の居城宇都宮にお泊りになる 予定であったが、上野介が逆意をもって御湯殿に落とし穴を設けて秀忠公を 弑し奉るたくらみが露見した。 秀忠公は密かに酒井雅楽頭 忠世 のみをお供にして引き返され江戸城へと お帰りになり、松平下総守 忠明 が秀忠公の御装束を着て代わりに御社参し 上野介を謀ってこれを捕えて流刑にされたと言う。 翁草 宇都宮の事件は落とし穴だったと言う異説である。 なお翁草の筆者は他の説も併記しつつ、どの説も裏付けが取れなくて怪しい んだよねぇとか身も蓋もない事を書いてたりする。 朝鮮の役で渡海していた伊東祐兵は、朝鮮の安骨浦より 黒田如水に相談の事があって、家臣の借屋原甚右衛門尉満鎮を豊後へと遣いさせた。 豊後に到着した借家原を如水は近くに召し、 「さてさて、良いところに参った。 実は私の方から遣いをやって、申したい事があったのだ。 それはな、太閤殿下が、近頃殊の他に衰えられ、かつ、今の日本国内には様々な怪異が起こっており、 遠からぬ内に世の中は、又々騒がしくなるであろう。 そうなった時には、だ。 民部殿(伊東祐兵)は小身であるから、国元のこと、甚だ心もとなく 感じられるだろう。 だから天下の事が、未だ起こらない内に片時も早く、島津家と協議をし、 縁辺を取り結ぶか、又は島津の麾下に入ることを約束するかして、互いに神文を取り交わすべきであろう。 この旨を、早々に帰って民部殿に伝えてほしい。 」 こうして借家原は急ぎ豊前を立って、明くる慶長2年正月中旬、安骨浦に帰還し、 伊東祐兵に如水の口上の内容を伝えた。 これを聞いた伊東祐兵は非常に悦び、早速加徳島の島津陣中に赴き、兵庫頭(島津義弘)と会談し、 『以後堅く唇歯の好みを結び、互いに違背あるべからず』 との神文を取り交わした。 しかし、ついに景虎が忍城に攻めてくるというので、成田長泰は長男の左馬之介義長、次男左衛門次郎泰高を先陣として、 別府、酒巻、奈良、玉井、山田、松岡などの一族郎党に下知をし、忍城大手の長野口、行田口、搦め手の皿尾口と人数を分け、 籠城の準備をした。 この忍城は南北が大沼で水を滔々とたたえ、東西がわずかに陸続きであるものの、その道幅は狭く、さらに空堀を穿ち石壁を高く築いているので 攻めるに難く守るに易い要害の城であった。 忍城に到着した長尾景虎は城の周りの様子を一通り見て回った後、騎馬の者を少し連れただけで大手の狭間口までやってきた。 これを見つけた忍城の櫓の雑兵が、鉄砲十丁ばかりで撃ちかけたが、景虎はこれを物ともせず、さらに大手の周りを見て回った。 これに狭間の雑兵が 「そこの馬上の男、大将分と見た!汚くも後ろを見せるのか、返せ返せ!!」 と叫んだ。 景虎はこれには答えなかったものの、再び馬の鼻面を櫓の方に向けて暫く立っていた。 城兵たちは再び鉄砲で撃ちかけてきたが、弾丸は一発も景虎に当たらなかった。 この時城兵に小知恵のあるものがいて、 「あのような猛勇の大将には、鉛の弾丸は当たらぬものである。 城内に金で造った弾丸が有る。 このような時こそそれを使ってみよう!」 と言ったので、それを急ぎ探し出し、3発まで景虎を狙って撃ちかけたが、これも盡く外れた。 城兵は呆れて鉄砲を投げ出し 「まるで何かの化身のような名将だ!このような立派な大将を、我々のような卑しい雑兵が殺してはもったいない」と思い 「どうか早々にお帰りあれ!」と呼びかけた。 これを聞くと景虎は、ゆっくりと引き上げていった。 この様子は関東の先方衆や越後譜代の諸将も、手に汗を握り、固唾を呑んで見ていた。 その夜、景虎の軍師である宇佐美定行(定満)は景虎に諫言した 「殿!昔源九郎義経が讃岐の屋島の磯で弓を流したことがあります。 義経はその弓を拾おうとして馬を乗り入れたために、敵の弓矢の的と なりました。 この時、増尾十郎兼房という老臣が、『こんな些細な事で、大将たるものが命を失ったらどうするのですか』と意見したと言います。 今日の殿が、まさにそうです!敵の弾の的と成って死ぬなどは犬死にというもの!以後気をつけられませ!」 しかし景虎、これに笑って 「お前の言葉は尤もな事であり、有難く聞きたいと思う。 だが、人間は生きようと思えば死に、死のう死のうと思うと却って生きるものだ。 この三昧境が身に生きた時こそ、火に入っても焼けず、水に入っても溺れぬ、ということを昔、人に聞いたことが有る。 」 と答えたので、流石に宇佐美も返す言葉がなく、引き下がったという。 しかし家臣も「してその者の名は」ぐらい聞き返せばいいのにー。 いやその前に見てないで止めれ。 つか銀が魔除けなのは西洋の風習でしょ。 俺も血圧高いから気を付けないとな。 どうしてその敵を討たずして死ねようか」と腹をかき切り、腸を引き出した。 腸を見てみると奇妙な怪物が出来ていた。 形は石亀の如く、くちばしは鷹の如く 尖り曲がっていて、背中には刀の当たった跡があった。 長秀は自ら筆を執って事の次第を記し「我が家督の事を良いように処理してください」 と書きしたためて、腹を切った刀に積蟲を添えて御殿に献上した。 秀吉はとても驚いて嘆き、 自ら筆を染めて「間違いなく子息に本領を与える」と固く誓った。 長秀はこの返事を披き見て「もう思い残すことはない」と言って亡くなった。 実は上杉家の仕置において最も重いものは、刀脇差しを没収し、一生帯刀を許さぬことであり、 その次に死罪、追放、所領没収、寄騎同心召し放ち、籠居、という順であった。 しかし、右衛門佐の罪はそれ程ではなかったにもかかわらずこのような重罪に処せられ、 親の庵原之助は内心深く謙信の無慈悲を恨んだが、とにかく御前に出て自分のこれまでの軍功を並べ、 それに免じてほしいと詫び言を申し上げた。 そこで謙信は右衛門佐の罪一等を減じて両刀を許した。 そしてその代わりとして、切腹を命じた。 この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、 と至鎮へ申し送られてきた。 至鎮はこれに、 「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。 ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、 五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。 その勢い当たるべからず。 このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。 金剛太夫は江戸は浅草において幕府のお許しを以って勧進能を興行した。 この西国東国の諸大名、大身衆まで江戸に在ったため、各々へ公儀より桟敷を与えられ、見物をされた。 中でも伊達政宗の桟敷は舞台の正面にあり、ひときわ物事キラキラしく飾り付けていた。 その右隣には島津殿、左隣には毛利殿、これ以下大身小身残らずこれに集まったため、桟敷の結構さ、 華麗な御簾、綾羅錦繍の幔幕、八珍の食事も飽き満ちて、見物の諸人も目を驚かせた。 さて、このような中勧進能は行われたが、毎日の能が打ち続く内、太夫も草臥れたのであろう、第5日目の 能は朝から七番行われたが、不出来であったので、見物の者達の心にも響かぬ有り様。 大夫の方も 何となく心進まぬ様子であったので、その日の演目が終わり締めの祝言の前に、 伊達政宗が「もう一番するように」所望した。 その時は諸大名は勿論、桟敷、芝居の者達も立ち返ろうという所だったのが、政宗は自ら御簾を上げ言った 「今日の能は何とも心残りの多い出来栄えであったと思う!であるので、もう一番所望をした。 各々、立ち騒がぬよう見物するべし!」 こう宣言したため、皆帰るのをやめそこに留まった。 ところが金剛太夫からの返事は 「大変名誉なご所望ではありますが、出来ません(冥加にかないたる仕合にては候へども、罷成るまじき)」 これに政宗、もってのほかに激怒した 「何だと!?私の所望が出来ないだと!!?なんという推参!口惜しきことか! …成らぬ事というのなら、無理にでも成らせよう。 どうしても成らぬと言い張れば、足軽共に 楽屋を取り巻かせ、太夫を始め役者共、全員を撫で斬り(皆殺し)にせよ! ただし!この返事の憎さ、ただ殺してはならんぞ!たるべく痛めつけて殺せ。 この政宗程の者が望んだことを、かなわずして退くような事があろうか!?一人ひとり首を刎ね、 その後上様にこの事を言上しよう。 上様もどうしてこれを非義と思われようか! 政宗は納得しておらぬぞ!」 伊達家中の上下この言葉を聞くや袴のくくりを高くし、すわと言われれば我先に取って掛かろうとの 姿勢を見せ、勇今にも動き出そうという有り様。 「さあ、事が起こったぞ!」と皆色めき立った。 しかし、ここに大慌てで駆けつけたのが江戸の町奉行衆である。 彼らは政宗に 「陸奥守殿(政宗)の御意、御尤も至極であります。 今日においてあなたの御心に背くような者は 一人もありません。 であるのに太夫の返事は言語道断曲事であります! …で、ご所望に違背申したことの処分に関しては、御前にはお手をかけさせません。 私達が この件については計らいます。 町の同心の者達もそのように心得よ!」 そういって騒がしく下知をした。 どうも町奉行、大変なことになる前に、事態を政宗から切り離そうとしたようである。 そうして金剛太夫に事情を聞くと 「出来ないと申し上げたのは、勧進能では、役を勤め終わった役者はそれぞれに帰ってしまいます。 そのため今は皆帰り、残っているのは最期の祝言を噺するものばかりという状況です。 ですので、出来ないと申し上げたのです。 」 これを聞いた政宗は 「そういう事なら、その理由を最初に言わなかった事が曲事である。 また役者共も憎きことなり! 上様より相応な知行が下されているのは、こういう時のためではないか。 私も未だ帰っていない前に、自分の役が終わったからといって帰るなど、奇怪である! その役者たちを呼び戻せ!道で追いつかないのなら、宿まで行って引き出してこい!」 即座に馬乗りや徒歩衆が、我勝ちに大勢かけ出した。 政宗はこれを察すると皆々に 「所望の能、少し支度に時間がかかる。 待ち草臥れているだろうが、もう少し待ってほしい!」 と自身で声をかけ、小姓頭を呼び出し 「芝居の者達に酒を振る舞いたいのだが、にわかの事であり直ぐには出来ないだろう。 用意出来次第 出すように。 」 そう仰せ付けた。 しかし流石は政宗の小姓頭である。 主人の事をよく把握している彼はこの仰せを聞くや 「御諚であるぞ!振る舞え!」 と小姓衆に申し渡すと、たちまち南都諸白(中世の高級日本酒)の大樽が数をも知れず芝居へと持ち込まれた。 こんな事もあろうかとちゃんと用意していたのである。 主人が主人なら小姓頭も小姓頭である。 すると大桶半切りを用意し、樽の蓋をここかしこで打ち砕き、樽のまま持っていくものもあり、 酒を引きかぶって濡れ、着物を絞るものもあり、様々な肴を持ってきて器に盛り付けて出し、 さしもの広い場所であったが、東西の大名小名が寄り合い江戸中の貴賎がこぞり、芝居も人の居所すら 無いように見えた。 政宗は芝居の者達に土器の盃2,3千ほど出したが、それでも足りず、家臣に 「酒さえ汲めるものならなんでも良い、皆出してしまえ!」 と命じたため、梨地に蒔絵した角、金銀を散りばめた重、喰籠、皿鉢の類、てに当たるを幸いに 芝居に向かって投げつけた。 そんな事なので芝居の内は大いに興奮し、色のあるものを手に手に持って 酒や肴に飽き満つる様子はもみじ流れる龍田川、吉野初瀬の花盛に嵐を誘うのと異ならない光景で、 桟敷の諸大名は自らの酒宴を差し置いて幔幕を上げさせ 「なんと大層なことだろう。 天竺の月蓋長者が八万余人の非人どもに施行を引いたという楽しみも、 これにはどうして勝るだろうか。 なんと面白い景色だろう。 」 と、暫く感嘆の声は鳴り止まなかった。 しばらくして政宗は御簾を上げ、「お前たち、酒のんで面白いか!?上戸も下戸もこんな慰みは 酒にしくはない。 互いに友を呼んで、飲めや飲めや!」と煽り、すでに酔っ払った状況で 「いいか芝居の者共!いま芝居の中に出ているもの、全部お前らにくれてやる!思い思いに取っていけ!」 と言い放った。 これに人々は金銀砂子を敷いた数々の道具をそれぞれ取って、喜び興奮すること限りなかった。 この時数が少なければ人と奪いあうような事も起こったのだろうが、そういったことは起こらず、 逆に人々は驚いたという。 酒に目のないものたちは大樽を抱えて、これに過ぎたることはないと喜び持ち帰り、 上下万民、皆興奮の状況で宿へと帰った。 次の日、さしもの広き江戸に道具一つ持たないものはない、とまで言われた。 この事は将軍家の耳に達し、大いに感嘆し 「この頃類いない事である。 しかしこういう事は、学んで出来ることではないな。 」 と言われたという。 (政宗公御名語集) 伊達政宗、喜多七太夫の勧進能・悪い話 このお話の伊達家の側のでも記録していたとはw ともかくも、よくこんなことやったものである。 というか、伊達家で記録していたんですねこれw ともかくも、よくこんなことやったものである。 天正5年の11月頃から6年の正月にかけて、謙信公の姉君・善道院の居所では 様々な怪異が起こったが、その内の一つは、或夜、大きさ4,5尺にも足らない人形が、 小馬に乗って何処かから飛び出し、そのあたりを徘徊した。 人がそこに近寄れば影も形もなく、しかし遠くから望むと姿が見えた。 このことは数日間続いた。 また春日山城内の毘沙門堂のあたりでは、頭の毛の逆さまに生えた者が、 その髪の毛で顔を覆い、毎夜その辺りに出現して、行人を悩ませた。 これは先に、謙信公によって非業の死を遂げた柿崎景家の怨霊だと噂された。 天正6年3月朔日には、深夜、皆寝静まっている時に、城下の侍屋敷のあちこちで突然、 老若男女の悲鳴の声、遠くからも近くからも響き渡り、人々に戦慄の念を抱かせた。 恐怖に囚われた番卒は、それでも震える足元を踏みしめつつ、役目のため嫌々ながら、声のした方に 向かっていったが、すると悲鳴はパタリと止んで、その他人の声もなく、またどこから その声が上がったのかも解らなかった。 3月3日の戌のころ(夜8時頃)には、春日山城大手の下乗場側に立ててあった大石が、 俄に二つに裂けて互いにぶつかり合い、暫くの間奮闘突撃しているように見えたが、 破片が霰のように飛ぶためそちらを見ることも出来なかった。 ややあって片方の石が微塵に砕けたかと思うとその石の戦いは終わり辺りは静まり返って そのまま夜は開けた。 石の戦いの場に通りかかった3,4人の者達は、有り有りとこの様を見て恐怖の念に駆られ、 声も立てずに逃げ帰った。 やがて夜明けに成ってその場に行ってみると、石には少しの変わりもなかった。 ただ、その付近一帯は、血を流したかのように一面赤く染まっていた。 (上杉謙信言行録) 上杉謙信の死の前に起こったとされる怪異についての逸話である。 この時、ある人が こっそりと輝政の身長の低さを嘲った。 すると輝政は扇を挙げ、起き上がって舞い「このように勇功があって、 このように領地がある。 どうして身の丈を求めるだろうか」と言った。 当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、 そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。 城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は 洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。 ところがこれを聞いた幸長は、 「今日は泊っていった方がいい。 ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、 小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。 是非泊っていくといい。 見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。 」 と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。 次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。 幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、 幸長は長政に自分の家老や物頭らを 「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」 と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。 幸長は川口まで長政を見送り、 この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。 幸長は大膳に、 「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。 わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。 」 と申し付けた。 そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。 ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。 さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。 大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、 長政は礼に刀をやって大膳を帰した。 一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと 何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。 すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから 「さても今日は迷惑なことでした! 黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので 大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」 と答えた。 これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、 「わしが聞きたかったのはそのことだ。 わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、 その程度の事に気がつかない訳がなかったな。 そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。 この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、 様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。 ただの見舞いのはずがない。 そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、 西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。 そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。 これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。 そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。 」 と理由を説明し、 「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」 と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。 浅野長政公伝 より 長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。 前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと 時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると 海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。 大膳は松田と会い「私が召し使っている者どもが最後の供をしたいと言う のを色々と押しとどめています。 もし私が死んだあとにこの旨に背いたら 来世までも勘当し縁者一類をも五畿内近国より所払いにすると申し付けま すので、くれぐれもお願いします」と頼んだ。 最後の盃を松田と酌み交わしていると、大膳の郎党どもが「最後のお供を すれば勘当されるのならお先に参ります」とあっと言う間に三人が腹を 切って死んでしまった。 残るものはこれを見て「これは理である」と我も我もと続こうとするのを 松田の郎党や寺中の僧達が一人につき三人五人と取りついて、太刀を奪い 取った。 大膳はこれを見て「何という不覚なる者どもか、誠の志あれば命長らえて 熊谷の菩提を弔って欲しい。 これでは却って黄泉路のさわりとなろう。 主がこの世にあればこそ主の為に命も捨てるのだ。 この大膳もすぐさま出家して主君の御菩提を弔いたいがお許しが無くて どうしようも無いのだ」と涙にむせんだ。 郎党も仕方がないと諦め「皆で髪を剃り主の御坊の御弟子となって、後は ねんごろに弔います。 御心易く最後のご用意を」と申した。 熊谷はことの他これを喜び、すぐに行水をして仏前に向かって礼をし客殿 の前に畳を裏返して重ね、その上で水盃を取り交わして、三方に乗せた 脇差を取り、西に向かって腹を十文字に切って、首をのべて討たせた。 松田も日頃から深い付き合いであったので、涙にむせびつつ御坊に頼み 百箇日までの弔いのように勤めてもらった。 ところがこの喜兵衛が、兄が武田信玄に内通し、深谷、倉加野、高山等と語らって箕輪を乗っ取ろうという 企てが有る、との情報を得、密使を走らせ 「このような事ですので、少々軍勢をこちらに向けていただきたい。 あとは自分が手引して、 謀反人を追放させます。 」 と、輝虎の近習で、僚友である小野伝助へと伝えた。 輝虎はこの時少勢で箕輪まで出ていたのだが、これを聞くと早速高崎城へと向かった。 ところが、である。 その途中の鳥川という土地で、密使を出した和田喜兵衛が現れ、こう言ったのだ 「謀反のことは、私の聞き違いでした!謀反はありません。 しかし聞き違いで遣いを出したことが発覚し、私は城にもいられなく成り、こうして逃げてまいりました。 」 これを聞いた輝虎は当然ながら激怒した 「このような未熟な内通の容疑で出馬を促すとは、何たることか!」 そうして喜兵衛を、輝虎に従って付いて来ていた小野伝助と一緒にまとめて斬り捨てた。 しかし、ここで輝虎は思った 「この上は聞き違いであったと言って厩橋に戻るのも、後日の笑い草になってしまう。 そもそも、火のないところに煙は立たぬというではないか。 謀反の気がないわけでもないのであろう。 よし!少勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を攻めよう! 後のことはそれから考えよう!」 そう決心しまっしぐらに高崎城に向かった。 輝虎は自ら槍を取って大手門に突撃、続く直江実継、大関親益、永井尚光といった家臣たちも 負けじと駆け込む。 この突然の輝虎の攻撃に、高崎城は訳のわからぬまま防戦したが、1つ2つと城門が破られていく。 しかし城主の和田兵衛大夫も豪の者であったので、自ら槍を取って必死に戦った。 そうしている内に輝虎も、軍勢が少数で疲れきっているのを見て取り、引き上げを命じた。 そして郭外に放火し、早々と厩橋に帰っていったという。 まあそれ以前に激怒した和田兵衛大夫が積極的に誼通じに行くと思うけど。 時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。 この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。 日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。 すると突然、秀望は忠重を斬殺した。 太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。 事態に気付いた忠重の 家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。 吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、 堀をつたって逃れた。 吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。 忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。 これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、 日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。 それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』と ありました。 ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。 よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、 その傷を見舞った。 そして 『月星を手に取るからに この家の 栄えんことは銀河のごとし』 と、自らを謳った。 そんな千葉宗家の後を継ぐ惣領には必ず、体の中に月星のイボがあった。 これは不思議な事であったが事実である。 千葉邦胤の祖父・利胤が弘治三年(1557)八月七日に30歳で亡くなる。 彼には二人の男子が在ったが、 長男の胤富にはそのイボがなかったが、次男の親胤には7つのイボがあったので、無理に兄の胤富を押しのけて 次男の親胤が後を継いだ。 ところがこの親胤は生来暴虐で、領民の保護も出来ぬ有り様であり、千葉家中では危機感を持ち、天正七年(1579)五月四日、 密かにこれを殺し、改めて長男胤富が家督を継いだ。 しかしこの胤富に、殺された親胤が怨霊となって祟り、胤富も早死してしまった。 胤富の後を継いだ子の邦胤も、元々邪狂の性質はあったものの、たかが屁のことで殺されてしまったのである (屁と恨み ) このこともまた、殺された千葉親胤の祟りであると、噂されたのである。 (関八州古戦録) 千葉氏当主の特徴と、千葉氏を襲った千葉親胤の祟りについての逸話である。 しかし、大谷は癩病を煩って後年には病が眼中に入り、盲目となったので奉行職を辞退したが、 大谷は朝日御方の甥で政所の従弟であるうえに、才智があって節操があり、篤実な者なので、 豊臣秀吉は深く惜しんでしばらくはその願いを受け入れなかったが、病気は良くならず、 奉行職が欠けてしまったので、浅野長政を加えたのだという。 伊勢平氏の一族であり、一説には平清盛の孫・資盛を祖とするともいわれ、 関・神戸・峰・鹿伏兎・国府の五家に分かれて、関家を総領として五千人を動員できる勢力を有していた。 そんな由緒を持つ関家であったが、この関家の当主には代々ある身体的特徴があった・・・ 天正10年、伊勢亀山城主・関盛信は、後継ぎを決めるために家老達を集め、 意見を求めた。 盛信の長男盛忠は既に長島一向一揆討伐の際に戦死していた。 家老達の内、葉若藤左衛門は次男の一政を推した。 一政は足が悪かったので、僧になるべく当時は比叡山の稚児になっていた。 これに対し、岩間八左衛門は三男の勝蔵を推した。 なぜなら、一政は足が悪い以外は常人と変わらなかったが、勝蔵は違っていた。 勝蔵の体には乳首が『四つ』あったからだ。 関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており、勝蔵はこの条件に適っていたのだ。 勝蔵はこの頃、柴田家に仕えていた。 盛信は結局、葉若藤左衛門の意見を容れて一政を後継ぎにすることにし、 一政には蒲生賢秀の娘 氏郷の姉妹 を娶らせることにした。 盛信自身も蒲生賢秀の姉妹を娶っていたから、蒲生家とはこれで二重に婚姻を結ぶことになった。 この結果一政を推した葉若藤左衛門が権勢を握り、逆に岩間八左衛門の勢力は衰えてしまった。 その頃、羽柴秀吉は関家に対し、当時関家が従っていた織田信孝からの離反を勧めた。 盛信は、 「蒲生家と一致して行動することにしているので、蒲生の去就に任せる」と答えた。 蒲生家は既に秀吉の一味だったので、関家もまた秀吉に付いたわけである。 翌年 天正11年 の正月、関盛信・一政父子は秀吉に挨拶するため、 葉若藤左衛門を連れて亀山城を出発した。 ところが、この留守を窺っていた岩間八左衛門は、一類四十三人と共謀して反乱を起こし、 亀山城を奪い、隣領の滝川一益の軍勢を引き入れてしまった。 関父子は仕方なく蒲生家に逃げ込み、秀吉にこの事を報告した。 これを聞いた秀吉は大軍を率いて北伊勢に出陣し、一益との間で賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる 戦いを繰り広げることになったのである。 秀吉軍の攻撃の結果、亀山城は開城し、関父子も領国に復帰したが、 そもそもの原因となった岩間一族は降伏して許され、元通り仕えることになったという。 特に咎めがあったとは書かれていない。 勢州軍記 より の千葉氏の話と似たような話があったので投稿。 あちらは総領の証?がある方に継がせたら酷いことになったという話だが、 こちらはない方に継がせたら謀反を起こされたというお話。 ,周公身如斷,? 陶色如削爪,? 夭面無見膚, 傳? 身如植鰭,伊尹面無須麋,故知大聖、大賢不可以形貌相也。 この時微妙公がお尋ねになった 「下々はきっと私のことを、吝い殿様だと言っているだろう。 」 座の人々は 「いいえ、そのような事は聞いたことがありません。 ただ、『御物綺羅し』とは 呼ばれています。 」 御物綺羅しとは、綺羅びやかな御物を取り揃えているといういみであろうか。 しかし微妙公は強く否定した 「いや、そのように言うはずがない!」 これには御前の人々も意地になって、誓言まで立てて同じことを申し上げる。 しかし微妙公は 「いいや、そんな事が有るはずがないのだ。 私は歳を取って、殊の外吝くなったことを 自覚しているのだ。 昔と違って、加増や、その他褒美を取らせるときも、2度も3度も思案してしまうのだ。 昔は思い立ったらすぐさま、そのまま遣わしたというのに…。 」 これは神保八左衛門の話に伺ったことである。 (微妙公夜話) 微妙公、歳をとってから褒美に慎重になってしまったことを嘆く、という話である。 そして、明六つ(午前5時頃)と仰せられた時は、例え八つ(午前1時頃)や七つ(午前3時頃)に 目を覚まされても、明六つと申し上げなければ、起きられず御床でお待ちになり、 六つになって時刻を申し上げると 「明六つになるのを待っていたのだ」 お仰り起きられました。 またある時、七つ時に起こすように仰せ付けられた時、時刻になりこれを申し上げると、 政宗公は百夜に一夜ほどは、よくよく眠く思われたので 「あまりに眠いから、あと半時(1時間)ほど過ぎてからまた起こしに来い。 」 と言われて返され、その時刻になってまた申し上げると、その時も眠く 「とにかく明六つまで寝かせよ!」 とか 「明六つ半に参れ!」 などと時間を指定されました。 幸光は真田昌幸に仕え、岩櫃城を任されていた。 しかし天正9年に鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、西久保、横谷の七人から昌幸へ 「海野兄弟に逆心あり」と注進されてしまった。 昌幸は弟の隠岐守昌君を中心に海野兄弟討伐の軍を派遣し、それぞれの館を襲った 弟輝幸のこの時の武勇伝はまとめにも出ているが、幸光の抵抗もすさまじかった。 幸光は御年75歳、体はまだ動くが目はほとんど見えなかった。 そこで幸光は甲冑で身を包んだ上で部屋に麻ガラをばらまき、敵兵がそれを踏み折る音を頼りに 三尺五寸の太刀でもってこれを叩っ斬った たちまち敵兵14,15人を斬り伏せた。 そして敵兵が四方へ逃げたところで、「もはやこれまで」と 腹を十文字にかっさばいて切腹した。 哀れ幸光、その35歳(?!)の妻と14歳の娘も、国元である越後へ落ち延びようとしたが 敵に囲まれて、家来である渡利常陸守がこれを殺した。 その一つは、山田、荒武、津留、大脇の四家であり、これは興禅公(伊東祐重(氏佑))が 京より下向されるとき、先に国元にあってこの下向を周旋した人々である。 もう一つは、稲津、落合、湯地、川崎の四家であって、こちらは興禅公に供奉して 京都より来た人々である。 この人々は下向の衆であるからとして客座に着座し、国元に在った四家は 居付きの衆であるからと主座に着座する慣例となっていた。 これはいずれの四家も序列の甲乙がつけがたいため、このように命じられたのだという。 (日向纂記) 「四天王だけど五人六人いる」というのはいくつかありますが、こちらは 『四天王Aと四天王Bの二つ有る』という、斬新な形態である。 あの茶釜を 忠興弟の 興元が欲しがっているようだが、おかしくてたまらぬ。 興元にあの良さがわかるはずがない。 あの釜は貴方が思っている以上に良い物だ。 他の者にやるなどと言わず、是非とも自分に譲って欲しい。 興元には別の釜をやればいい。 忠興、興元兄弟和解後の元和期に書かれた書状だが、 利休高弟の自負心溢れるいかにも忠興らしいお手紙でした。 若い士がその心得を問うたのに 答えていわく だいたい仕物というのは相手に刀も抜かせずに切ろうと言うのは早計だ。 それでは多くは仕損じてしまう。 まず第一に後ろからは斬りつけないものだ。 これは有利不利ではなく近寄って人を斬る前に声を掛けなくては騙し討ち になるので必ず声を掛ける。 その時に心得た者なら前へ一、二間ほど飛びのいてから振り返りざまに 抜き合わせるので、先に太刀を打つこともできずに慌ててしまい仕損じる ものだ。 前から斬りつけるのは有利ばかりという訳でもないが得もある。 その者は後ろには飛べず、互いに向かい合って「御意である」と言って、 刀に手を掛ける。 これが先太刀なのだ。 相手が心得たりと刀に手を掛けた時には、我は半ば抜いている。 相手が半ば抜いた時には、我は全て抜き放っている。 相手が全て抜き放った時には、我は斬りかかっている。 これが先に太刀を抜かせぬ理なのだ。 こうして心を静めれば仕損じる事は 無いものだと語った。 中でも安房、上総の両国は殊更ひどく、山が崩れ海を埋め、見る見るうちに土が盛り上がって 丘になった所もあった。 社頭、仏閣、寺院、坊、寮、また士農工商の家々尽くが倒壊した。 まさに稀有の出来事であった。 明け方になると海では潮がにわかに引いて、30余町(およそ3.3km)も干上がった。 古く伝えられたところには、康安元年(1361)7月24日の地震で、摂津国難波浦で数百町が干上がったことが 在ったというし、またその時には、阿波国鳴門の沖数十町が干潟となり、周防国では海中に 20丈ばかりの島が浮き上がったという。 このように先例がないわけではないが、この辺りでは初めてのことであった。 これに津々浦々の漁夫、海人は言うまでもなく、村里の老若男女尽く、肝を冷やさぬものは居なかった。 海が干上がった場所では、波打ち際や切り岸の間に、螺、栄螺、蛸、鮑、海藻磯菜が充満して、 足の踏み場もないほどであった。 人々は、最初はただただ仰天していただけだったが、里の子供たちが争ってこれらの獲物を 拾い集めた。 魚や貝などがいくらでも取れた。 しかし、翌々日の10日夜半になって、遥か沖合に鳴動が聞こえ、黒雲の渦巻くのが見えた。 人々はこれを見て 「すわ!津波だ!」 と叫び、妻子の手を引いて争って山へと逃げた。 しばらくすると案の定、高波が打ち寄せ、うねるように波がみなぎり湧いて、数十丈(1丈約3メートル)の 山々の中腹まで水が押し寄せた。 民家は尽く波に飲み込まれ、人馬の溺れ死んだものはその数をしれず、堤は切れ、橋は落ち、 陸地を船が往来した。 安房、上総、下総の浦々45ヶ所全てが一様にこの高波の被害を受けた。 その名残であろうか、波の引いた後、そこにあふれた魚の名前が、今の地名に残っている。 例えば「鱸の谷」「鯛の谷」などという地名である。 常陸国の浦々も、これとだいたい同じ惨状であった。 数日の後、地震も止み、波も引いたが、およそ20日の間、死体となった人間や牛馬、 また家財道具などが磯辺に流れ寄せた。 小舟に乗ってこれらの死体を引き上げ葬った者もあり、また家財を拾い集めて一儲けした者もあった。 (関八州古戦録) 天正18年の、東国での大地震と津波についての記録である。 確実な資料が無くて諸説あるけど、 あれもほぼ同時期のはず。 秀吉公は「今日は秀次の馳走であるから客人の望み次第であるな。 能の番組は何であろうか」と仰せられ、方松は「白髭・忠度・野の宮 でございます」と申し上げた。 秀吉公はこれを聞いて「脇能は誓願寺をいたせ」と告げたが、方松は 「古より脇能は目出度い神祇の能を用います。 誓願寺などは如何かと 存じますが」と答えた。 秀吉公が再び仰せられたのは「阿弥陀如来は九品の浄土の主である。 その主たる身が喜び踊り上がるのは、ますます目出度い事だろう。 さすれば今日の能は誓願寺を脇能に致すべし」との事で、その通りに 相勤められたと言う。 翁草 なお生身魂 いきみたま は御盆の前に生きている目上の人に対して 馳走すると言う習慣だそうな。 これは、現在伊東家が戦っている 島津家が大敵であるために、大友家と有効を深めれば国家(伊東家)の強みになるとの 趣旨からであった。 ところが佑邑のこの行為に対し、『国家のためではなく我が身のためにやっているのだ』との 流言が言われた。 これは伊東佑邑の舅が、伊東家重臣の野村右衛門佐であり、彼の一族は伊東領内11箇所の 城主に任じられ、野村の威勢は、当時並ぶものが無く、また自らも恣なる挙動が多かった。 其の上先代の光照公(伊東祐国)が楠原の戦いで戦死(文明17年(1485))した時、それは 指揮をとった野村右衛門佐の作戦が悪かったためだと、国中の者達が爪弾きにして彼を憎んだ。 そのように野村に悪評が集中していた時期だったため、この事も、伊東宗家には 光照公の正しき嫡男である伊東尹祐が居るにもかかわらず、それを差し置いて、婿である 佑邑を家督に据えようとしているのだ、と疑われたのである。 同年、4月9日の事である。 その日伊東佑邑は日知屋の屋敷で早く起き、発句を考えていた。 そして 『露はおき 萩はまだぬる朝哉』 と、発句を吟じた、その時、 その声を合図にしたように刺客が現れ、たちまちに佑邑の首を獲った。 同時に野村右衛門佐父子を始めとした野村一族の11箇所の城に伊東家の軍勢が押し寄せ、 尽く腹を切らせた。 伊東宗家による野村一門への粛清であった。 この事は、後に「野村の乱」と呼ばれた。 ところでこの時殺された伊東佑邑は、この後、伊東家に祟りをなしたらしい。 そこで享禄4年(1531)12月13日、都於郡一乗院にて、この佑邑を祭り八幡大菩薩と崇めたが、 しかしその霊魂が祟りをなすことを止めることは出来なかった。 そのため、遂には天文5年(1536)重ねて佑邑の霊を国富荘本郷に移して神とし、 さらに、朝廷に奏聞を経て、加護八幡の勅号を賜ったのである。 (日向纂記) 戦国初期の日向伊東家における「野村の乱」と、その後の祟りについての逸話である。 海野長門守幸光、海野能登守輝幸兄弟の兄である。 羽尾道雲は同じく海野氏族である鎌原宮内少輔と西吾妻の覇権を争っていた。 武田信玄による仲裁も入ったが、結局鎌原宮内少輔は自領を追われて信濃へ逃れた。 永禄五年六月、羽尾道雲が万座温泉に湯治に出かけた隙をついて、鎌原宮内少輔はこれを奪還する。 逆に今度は羽尾道雲が信濃へ逃れた。 羽尾道雲はまた領土を取り戻すべく、自身の親類で鎌原氏の重臣である樋口某に「勝てば鎌原領はおまえのものだ」と内通を呼びかけた。 樋口某はこれに応じ、「攻めるのであれば雪が深くならないうちが良い。 大前方面から攻めれば宮内少輔は自ら出てくるはずだ。 それで出陣の際は宮内少輔は黒い馬に、私は葦毛の馬に乗って出る。 黒い馬を目印にこれに乗っている宮内少輔を鉄砲で撃て」と助言した。 そして羽尾道雲は大前方面から兵を進めた。 それを討つべく宮内少輔も樋口某を連れて兵を進めようとした。 すると鳥居川を渡ったところで、宮内少輔の馬が足を前膝を折って伏せてしまった。 「この馬は足立ちが悪い。 樋口某、馬を代えてくれないか?」 さすがにこの場で断るわけにもいかないので樋口は力なくそれを受け入れた。 しかしだんだん戦場が近づいてきて鉄砲の音が聞こえると樋口は自分が撃たれると怖くなり、 そこかしこで止まったりしたため、宮内少輔からは1町ほど離れてしまった。 それ(樋口某の旗印が後方にある様子か)を見た羽尾入道は「樋口は内応するつもりだから後方にいるのだろう」 と特に異変には気付かなかった。 そしてついにその時が来た。 羽尾道雲に「黒い馬に乗った将が来たら、それを撃て」と命じられて潜んでいた鉄砲名人の猟師が、 黒い馬に乗った樋口某を見つけ、これを撃ったのだ。 猟師が撃った弾は樋口某の銅丸を打ち抜き、さらにその遠くにいた郎党の頭を打ち抜いた。 その報告を聞いた羽尾入道は「大将は討たれ、残った樋口は味方だからもう大丈夫だ!」と弓鉄砲を袋に収めさせ、 弁当を出させて宴会を始めた。 そこへ無傷な状態の鎌原軍が襲い掛かり、さらに裏切り者も出たため、戦いに敗れ羽尾入道は1騎で落ち延びたのだそうな。 この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに 浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。 長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。 八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。 その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、 長政に命じて中途で政実を誅殺した。 凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、 長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。 蒲生氏郷の陣では、馬を放つ事・喧嘩・大声・抜け駆け等は法度で堅く禁じられていた。 しかし、このとき蒲生家に仕えていた関東侍どもは、そんなことも知らない新参者どもであり、 己の勇気の命ずるがまま、抜け駆けして名を上げ、褒賞に与ってやろうと思ったか、 二騎の関東侍が連れ立って、勝手に城の堀際まで進んで行ってしまった。 これを軍奉行や横目の面々が氏郷に報告し、 氏郷は「志は勇ましいが、法度で禁じてあること故、その者らを切腹させよ」と申しつけた。 二人の関東侍はこれを聞いて津軽勢の小屋に逃げ込んだが、そこまで押し掛けて二人に腹を切らせた。 ところが今度は陣中の車丹波守が同じ関東侍と喧嘩を始め、 頭にきた氏郷は、「関東の奴らほど、法度を守らん連中はおらぬな!」 と蒲生家中の関東侍たちに一人残らず暇を出してしまった。 かの車丹波守は、元は佐竹義宣に仕えた高名な勇士であったが、 その後は蒲生郷可から扶持を受けたということだ 陪臣として仕えるならよかったらしい。 氏郷記 より 坂東武者の好き勝手に流石の氏郷も手を焼く、というお話。 宣教師の いなくなった山口では代わりに熊谷元直というキリシタン武士がキリシタンの 庇護者として活動していた。 元直は源平の合戦で活躍した熊谷直実の末裔で 毛利輝元に仕える有力な家臣であった。 熊谷元直の娘もまたキリシタンであるが、仏教徒の領主と結婚していた。 元直は この婿をキリシタンに改宗させようとしたがうまくいかなかった。 そして、その娘が 元直の自宅で亡くなった時、婿の菩提寺の仏僧たちがやってきて葬式をするために 娘の遺体を引き渡すよう元直に要求した。 元直は娘はキリシタンとして埋葬するから絶対に遺体は渡さないと拒否した。 このため、 仏僧との間で大論争となり、仏僧側が毛利輝元にこの問題を持ち込むと脅すと、元直は 数人のキリシタンを呼んで密かに娘を埋葬した。 そして、その後で適当な重さの 石を入れた棺に外側を布でおおいつくして、それを仏僧たちに引き渡した。 彼らは 娘の遺体を運んでいると思い、おおいに満足した。 熊谷元直はもっと満足であった。 仏僧たちが娘の遺体を手中にしていないかぎり、仏教の葬式をおこなっても問題ない と考えていたからである。 吉川家にとっては母方なんだけどな。 そのように布教活動を許して野放しにしていたことが 敗戦という天罰を招いたと仏僧たちは輝元に主張していたわけだ。 虎千代はあまりに乱暴や我儘が甚だしく、父親である長尾為景もほとほと困り果て、 手習いや学問を学ばせれば、少しは性格も治ると考え、春日山城下の禅院・仙林寺の 天室和尚の元に預けられた。 ところが、虎千代はなかなか、師の坊主のグズグズした意見など受け入れる様子はなく、 暇さえあれば相撲を取るとか庭木を伐るとか、小僧を泣かし寺男を困らせることを 毎日の日課のようにして過ごした。 寛仁大度の天室和尚ではあったが、もはや手のつけようがなく、為景に事情を知らせ 春日山城へと送り返した。 これは翌7歳の時のことである。 これには為景も仕方なく、家臣の加治安芸守春綱を頼んで、彼の養子とし家の安泰を図ろうと 思ったが、これは虎千代が承知をしなかった。 そこで為景は再び天室和尚と相談し、今度は下越後・古志郡なる栃尾の浄安寺に預けることにした。 そしてこれが、虎千代と長尾為景の父子の、永遠の別れともなった。 (上杉謙信言行録) どうしようもなく凶暴だったらしい、上杉謙信の幼少期についての逸話である。 同二日浪岡御所様 北畠具運 は昨夜至極の悪夢を御覧になり、 奥方も悪夢を見られた為、御祈祷を色々と被りなされた所、 三日には雪が降り大風が吹いて全く不思議なことであると人々は言っていたが、 四月五日に川原の御所 北畠具信 御親子は大御所へ切り入り、 大騒動となり城中防いでいたが終に大御所を殺害し川原の御所御親子も切られて、 家中の者は散々に逃げ去った。 御所様の御息子三郎殿 北畠顕村 は当時五歳であり、 北畠左近の計らいで養育して三郎兵衛殿と改名なさったが、その後浪岡譜代の武士も多く浪人となった。 『本藩通観日記』より、名門浪岡北畠氏の衰退が決定的となった川原御所の事件でした。 この祐願寺、背が高く筋骨たくましい、大変な暴れ者で、弓、馬、長刀、槍と、 どれを取っても名人であり、ふだん、真紅の綱袋を腰に下げ、その中にいつも砥石を入れていた。 これは戦場で敵を2,3人斬ると、直ぐに武器を研いで次の戦いに備えるためであった。 彼は武者修行のため佐野を出て諸国を廻っているうちに、甲府に来て武田信玄の庇護を受けた事が あったが、ところがこの時、祐願寺は自分の素性を明かさず、あまつさえ千貫の知行を望んだ。 信玄は面白い奴が来たと思い、近くに召して生まれた地を尋ねたが、祐願寺は 「ともかく一働きしてから」 と、姓名すら明かさなかった。 そのうちに戦があり、祐願寺は得物をとって走り回り、世人を驚かすほどの手柄を建てた。 信玄は再び彼を呼び 「もうそろそろ名乗っても良いのではないか?」 と聞くと、祐願寺もこれ異常黙っていることは出来ないと思い 「拙僧は、佐野の天徳寺了伯の弟で、祐願寺と申します。 」 と、初めて名乗った。 信玄はこれを聞くと 「そうか、只者ではないと思ってはいたが、それにしても千貫を要求するのはいかがであろうか?」 「それに値する者だと思っていますが…」 「いや、千貫匁をどうこう言っているわけではない。 わしにとって千貫は大した数字ではないのだ。 しかし、わが家譜代の者達に二貫、三貫、あるいは四、五貫程度で賄っているのに、例え名字正しき ものとはいえ、他所者の、それも新参のそなたにいきなり千貫をつかわしては、旧来の家臣たちの 憤りをも招き、家の害ともなってしまう。 時に今、東国においてそなたのような覚えある者を大禄で抱え、ひと角の武将に取り立てうるものは、 この甲斐の信玄、そして越後の上杉謙信の他にはあるまい。 急ぎ越後へ行って訪ねてみよ?」 そう言って信玄は彼に、太刀一振り、鞍馬一匹、更に旅費として黄金十枚を与えた。 祐願寺はその足で甲府を発って春日山に行くと、この事を吹聴した。 上杉謙信はこれを聞くと即座に彼に千貫匁の知行と与力の役を与え、自分も時々、彼から長刀の 指南を受けた。 ところが、この頃春日山に、やはり武者修行して上方より来たという何某という槍の名人が居た。 彼は越後にとどまり、直江大和守実綱、その嫡子神五郎を始め、上杉家歴々の者達に 槍の指南をしていた。 しかし祐願寺は彼の腕前を見て、正面から堂々と、その未熟さをあざけった。 このことが謙信の耳に入り、二人は公開の場で真剣勝負を行うこととなった。 祐願寺はこれに勝ち、何某は御前にて屍を晒した。 しかし、これ以後何某に指南を受けていた直江を始めとした歴々の者達が折にふれて 祐願寺を悪しざまに言ったため、謙信も家中の和を保つために、結局祐願寺を殺した。 このことが関東の佐野天徳寺に聞こえ、かれは謙信に恨みをいだき、彼は佐野の幼主である 小太郎宗綱を説いて北条方へと寝返った。 (関八州古戦録) 佐野天徳寺の弟、祐願寺の顛末である。 このために、その後の忠昌は人生を悲観して怏々とし、楽しむことはなかった。 永正五年二月十五日、忠昌は夜半の月を仰ぎながら、 「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と、西行法師の和歌を 口ずさみつつ、短刀を逆手に握り、 「よし、新納、肝付は今から必ず百年のうちに見事わしが取り潰してくれるぞ」 と言うと、えいっと一声を発し、自害してしまった。 この時、侍臣の奈良原助八も殉死して追い腹を切った。 これが薩摩における 殉死の始まりであった。 佐渡守は遺言に「士は武辺一辺倒が良い。 私は歌道・茶の湯・弁舌・ 公儀などが秀でていたので武辺の事は誰も言わない。 場数で言えば有吉より二度多い。 しかし世間は公儀分別は松井、武辺は 有吉と言うばかりだ。 士たるものはただ有吉のように武辺ばかりでその他は不調法なのが良い」 と申した。 翁草 自分の武辺が軽く扱われるのが悔しい戦国武将らしい話でしょうか ちなみに名前をそのまま解釈すると松井興長と有吉英貴になりますが、 内容的には松井康之と有吉立行のような気がします。 三斎も死ぬ直前に戦場が恋しいと言ってたりしてたな。 毎日2、3頭は乗りこなし 質実剛健を合言葉に、家中にも厳しく武芸の訓練を言い渡した ある日、名古屋城の掘端を、深編笠の不審な男が、しきりに城の様子を探っていた 鉄砲玉を結びつけた紐を掘りに投げ込み、大胆にも堀の深さを測り始める それを見た徳川義直は怒鳴る 「こんな大それたことをする奴は、岡崎の忠善しかおらん!何者であっても打ち殺せ!」 忠善は、岡崎までの道中に用意しておいた七頭の馬を乗り継ぎ 追っ手を振り切って一目散に逃走 岡崎城の大手門を通り抜けようとした時 「何者だ?待て!」と門番の武士が追いすがり、たてがみを掴んだ 忠善は構わず馬を走らせ、門番は引きずられながらも手を離さない 二の丸近くになって、主君と気づき手を離した門番に 「下馬所まで手を離さなかったら、百石ほど増してやったのに」 と流れる汗も拭いもせず、のたまったそうだ。 戦が終わった時代に産まれた殿様の哀れさというか、かわいさというか、そんな感じがよかったなー。 これを譜代の面々が「かかる重役を新参者に仰せ付けられるとは、御家には 人が居ないと言っているようなものではないか」と憤っていた。 久世三左衛門 広宣 はこれに頭を振って「それがしはそうは思いません。 御家 にはあなた方のような御譜代の士が居るのだから、人が居ないなどとは誰も 思いません。 このように仰せ付けられた事で紀州は古新に差別なく、ただ勇士を御賞玩に なると噂になり天下の諸士を集める良き謀だと存じます」と申したので、 これを聞いた人は感心したと言う。 彼はいつも三尺八寸の剣を佩びてこれを『笹の雪』と名付けた。 主膳正はその流水に瓜を切るが如きすぐれた切れ味を讃えて「笹の雪払へば落る、此刀、持主田中主膳なりけり」 と、狂歌を詠じ、表銘を彫った。 その後、主膳正は剣術の師某を手討ちにする。 しかし、その者は手向かいして 主膳正の膝に傷をつけた。 だが、主膳正は少しも痛がらずに、その者を仕留めた。 さらにその後、児小姓らに相撲をとらせて見物している時、主膳正は「わらべの相撲はまだるい」と言って、 傷が癒えていないにもかかわらず、立ち上がって力足を踏んだので傷口が破裂して血がほとばしった。 それでも主膳正は顔色を変えずにあら塩を摺り付けておいたところ、ついに傷は破傷風となってしまった。 これを聞いて大いに驚いた吉政は使節を馳せて多くの良医を遣し、内外の治療を施したが効果は見えなかった。 主膳正は何を思ったのか、大切の時に至って幽室に籠り、一切の面会を禁じた。 柳城より追々馳せ来る 老臣以下の者たちも次の間に控えるまでで、寝所を窺うことを許されなかった。 末期に至って、 主膳正は手を叩いて児小姓を呼び、硯と料紙を取り寄せて筆を染め、「十有九年一夢中、瓢箪瓢箪元夕顔」 と、書き終わるとたちまちこの世を去った。 吉政は訃報を聞いてたいへん嘆いたのであるが、未だ嗣子が 定まらないので国中の士民は安堵せず、老臣らの諌めもあり、まずは嗣子を定めようということで、 三男の隼人が嫡子に立てられた。 父に勇のある子供は、必ず臆することはない。 これは父親が常々、その道を説諭するためである。 この様に、人というものは生育が第一なのである。 」 (上杉謙信言行録) 上杉謙信の教育論である。 天正8年、上野へと出兵した武田勝頼は厩橋城に入り、東毛・西毛衆に大胡、伊勢崎などの諸城を攻め落とさせ、 自らは国境の物見に向かった。 一行は人々を動揺させぬようにと鎧は着けていなかった。 その一行が敵の膳城 今の前橋市 近くを通りかかった時、城の中では伊勢崎などから逃れてきていた武者たちが酒盛り中に喧嘩しており、 城代の大胡民部左衛門が「強敵武田勝頼が近くまで軍を進めているのに、酒の上の喧嘩とは何事だ」とフラグを立てたが、喧嘩は収まらなかった。 一方で城外では、武田の一行が城の周囲を移動しているのを見かけた膳城の雑兵がこれを討とうと追いかけた。 一行は全軍取って返すとこれをけちらし、雑兵が城内に逃げようとするのを追った。 勝頼は「父信玄以来、定法としてかような不慮の城攻めは固く禁じてあるではないか、引け引け」と下知したが、味方は城に攻めかかってしまった。 武田の一行はもとより鎧も着けていなかったが、城兵も喧嘩の真っ最中だったため混戦となり、結局膳城は落ちた。 合戦後、勝頼は「素肌で一城を攻略したことは父信玄の時にも全くなく、他にもあまり例がない!これほどの武勇をもってすれば、 長篠ぐらいの戦にはもう敗れまい!我が子信勝が早く一人前になればそれを大将とし、自分は頭を剃って家老のようになり先頭に立って 敵を踏み崩そうものを!」と意気盛んとなった。 心ある人々はこれを聞き、武田軍の統率力の減退と勝頼の無謀を嘆いたという。 政宗公はひねもすご酒宴をされ、七つ頃(午後4時頃)に帰られ、ご寝所に入ってうたた寝されていたのだが、 そこに年の頃12,3ばかりの、いかにも健康な童子が枕元にかしこまり 「調度よい時刻です。 急ぎ御出でになって下さい」 と申し上げた。 政宗公は 『これは五郎八姫が召し使っている童子であるから、五郎八姫が「お座敷に御出下さい」と呼んでいるのだろう』 とお考えになり 「心得た。 直ぐにそちらに出る。 お前はまず先に帰れ」 と仰ったが、童子はまくらもとにかしこまったままであった。 さては帰りの道を忘れたかと お考えになり、手を御打ちになると、おとなしき女房衆2,3人が御前へと参った。 彼女らに政宗公は 「そこにいる童子を、そなたたちが道しるべして連れてまいれ。 」 と仰ったのだが、女房たちにはその童子の姿が見えない。 政宗公は「それに、それに、」と 仰るのだが、、一体どういうことなのか解らず、みな不思議の思いをした。 どうも先の童子が、女房たちの入ってくる直前、一瞬のすきを突いて枕の脇から明かり障子の方に抜け消え失せたのである。 それに気がついた政宗は 「見つけられぬのも理だ。 今の童子は、音に聞こえた悪戯者であった。 ああ憎たらしいことだ。 それと気が付かないで接してしまったのが無念である。 もう一度来たなら捕らえて二度と逃さないのに!」 と言われたが、その後は何でもないような体でお休みに成られ、後にこの事をお話されたそうである。 (政宗公御名語集) 伊達政宗、いたずら小僧にしてやられた、というお話。 そうであったが小田家には、四天王と呼ばれた土浦の菅谷左衛門大夫、海老ヶ島の平塚石見守、 木田余の赤松疑渕斎、藤沢の飯塚美濃守を始めとして、他にも天羽源鉄斎、江戸山城守、大藤小太郎、 尾上、只越、月岡といった、世に知られた勇将、知将が有り、かつては周囲を囲む反北条派の 佐竹義重、多賀谷、真壁、梶原なども、これを攻め落とすことができなかったのである。 ところがこの年、小田家の知将と名高い天羽源鉄斎が明日をも知れぬ様態となり、天庵親子が駆けつけた。 天羽源鉄斎は老衰していても頭ははっきりとしており、天庵親子に寝たまま手を合わせて 見舞いの礼を述べ、そして苦しい息の下から氏治に言った 「我が小田家は、多年多賀谷、佐竹と矛を交え争い、片時として安堵の思いをしたことはありませんでした。 それは全て、こちらが小国であり、相手が大国であったためです。 ただ策を以って、これまで支えてまいりました。 御屋形様、私が死んでも策は同じです。 決して城を出て、平地で戦ってはなりません。 必ず、城にこもって闘いぬくのです。 籠っている内に、後詰めとして土浦、藤沢、海老ヶ島などの諸城より 援軍が来て、これを追い払うことが出来るのです。 」 氏治はこれに 「よくわかっておる。 源鉄斎老人の采配の通り、これからもその戦術を以って望むつもりだ。 」 「およそ険に寄りて守れば、一人で20人の敵を防ぐことが出来ます。 一人が一人と戦っては、 佐竹の多勢にどうして抵抗することが出来るでしょうか? 返す返すも、敵の誘いに乗って野戦をなさってはなりません。 どんな事があっても、籠城して防戦一途の 戦いこそが御寛容ですぞ!」 天羽源鉄斎は繰り返しそう言って死んだ。 源鉄斎は誠に軍配知略の老武者で、小田家にとっては高き山、深き海とも頼む支えであり、それが朝の露と 消えた今、小田家中では誰一人として肩を落とさぬ者はいなかった。 ところが、この源鉄斎の死は瞬く間に近隣に聞こえ、中でも佐竹義重は「時ぞ来たれり」と、源鉄斎の 死の直後、9月下旬には早速三千余騎にて手子丸へと押し向かった・ 小田氏治はこれを聞くや、なんと、直ちに兵を出して途中で迎え撃とうと人数を集めたのである。 重臣の江戸山城守は直ちにこれを諌めた。 しかし氏治は怒り 「何故止めるのか?佐竹の手の内はかねて知るところだ。 恐るるに足らず!」 「しかし敵は多勢、味方は無勢です。 それを要害もない平地で迎え撃つのは、源鉄斎殿が遺言したように 危険です。 」 「お前もまた源鉄斎か!その言葉、耳にたこができるほど聞いた。 源鉄斎が死んだ後だからこそあえて出て戦うのだ! 籠城をしていては負けることはなくても、いつまでも勝つことは出来ない! まして、小田城を奪った太田三楽斎の一族も、佐竹軍の中にあるときく。 今こそ運を天に任せて一戦せん!」 「しかし、みすみす敗れる戦いを」 「弓馬の家に生まれたものが何をいう!?負けるも勝も時の運である。 敗れてもそれは恥辱ではない! 不満ならお前一人籠って城を守れ。 私は城を出て敵を迎え撃つ!」 そう言って氏治は一千騎で城を出て、手子丸山を後ろに三ツ州浜形の紋所の旗印を立て、堅陣を敷いて待ち構えた。 微妙公・前田利常は大量の一歩金を御文庫の蓋に入れ、それを御前に置き、家中の者達が罷り出でた時に それを手でつかめるだけ掴ませて与え、家臣はそれを頂戴して退出した。 この時家中の者達は、何れも片手を付いて、もう一方の片手で掴んでいたのだが、 細源太左衛門は罷り出でると、いきなり両手で一歩金を救い上げた。 これを見た利常は 「おいおい、皆片手で掴んでいるのにそれはどうなのだ?」 と声をかけると、細源太左衛門は「はっ!」と一声返事し、両手ですくった一歩金を 懐中に入れ、また片手で掴んで頂戴し、退出した。 利常は「さてさて憎きやつ」と言われ大笑いし、非常にごきげんであったそうだ。 願わくば、馬にも未だどうにか乗れる間にこれを肩にかけ、老年の思い出のなぐさみとして、一合戦するのが望みである。 未だ君(将軍家光)もお若い。 なので、甲斐甲斐しくとは行かないだろうが、合戦にて君を指導し、また私の若き子供たちを 指導すること、これのみが今の願いである。 しかし徒に年月を送ってしまったよ、口惜しいことだ。 もはやこの具足も、このまま、これにてこそ。 」 そう語ると、ハラハラと涙を流された。 (政宗公御名語集) 平和な時代にかつての自分の具足を見た、政宗の感慨である。 そこで幕府の許可を得ようとした際、 方略上の候補地を第一に御幸寺山、第二に天山(一説星の岡山)、第三を勝山として 申請したところ、幕府は勝山を指定して嘉明の術中に陥ったという。 手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、 三楽斎は目を見開き声を荒らげた 「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」 これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、 三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、 そのまま逃げ去った。 備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。 大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。 鷹に肉を与えすぎれば、鳥を取らなくなってしまう。 百姓も豊かになりすぎれば、農業を疎かにしてしまう。 逆に、鷹に与える肉が少なすぎては、鷹は鳥を逃してしまう。 百姓も疲弊させてしまえば、田畑を耕すことすらできなくなってしまう。 また、百姓が豊かになろうとするのを、我らが卑しいことだと考えてしまえば、もはや農業そのものが 廃ってしまう。 」 そう仰られていたのを、津田玄蕃殿が聞いたと、私の亡父瀬兵衛が申していました。 (微妙公夜話) 一概に悪い話でもないですが、良い話でもないのでこっちに。 当時の為政者の農政観のよく出ている話だと思います。 やるよこれ。 その時私(水野勝成)は眼病を散々に患い、そのため兜を付けていませんでした。 それを父の惣兵衛(水野忠重)が見て 「お前の兜はなんのためにあるのか!?こういう時に着けるための兜であるのに、どうして着けないのか? それで一体何の役に立つというのか!! そういうことなら使わぬ兜はクソ桶にしてしまえ!!」 (其方か甲ハ何の為に候哉、此時着可申ための甲にて候に、何とて着不申候て何の役にたて申候哉、 左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得) そういって散々に叱りつけました。 私は惣兵衛に 「親だと言ってもそんな言い方は無いでしょう!今日オレの頭を割られても、それはそう言う 運命だったってことだ!是非に及ばぬ事である以上、たった今お暇乞いをいたします! 今日の一番首でも取って…、いいや取ってくる!!」 (親にて候得共左様之御意は無御座事にて候、此上は今日拙者のあたまをわられ申候は則時にて御座候間、 不及是非然上は、只今御暇乞にて御座候、今日の壱番首を取申候歟被取申か) と言い捨てて馬を引き寄せ打ち乗り、その場から直に敵陣に乗り込みました。 ある時、三郎兵衛は鮎を取りに行って勝成もこれに伴った。 この時、物が網にかかって 引いても離れなかった。 勝成が淵に潜って探ってみると、何か毛のあるものが手に当たったので 勝成は出て来て三郎兵衛にしかじかと告げた。 今度は三郎兵衛が潜って引き出してみると、 水底にいたそれは死んだ子牛で、その足に網がかかっていた。 」 「首一つ取るということは、途方もなく疲れるものじゃ。 団七兵衛という若者が、 長連竜の家来の小林なるものの首を取ったが、あまり疲れたので、本折町の八幡さま の前で、その首を傍らにおいて休んでいたところ、松村孫三郎という者が馬に乗り、 若党七、八人を連れて通りかかった。 ところが若党の一人が、『あの首は松村殿が、 先ほど突き倒されたものの首でござるぞ』と叫んだ。 『それならその首をこちらへ貰え』 と言って奪い取ってしまい、小松勢身方同士で大喧嘩となってしまった。 しかし大勢集まって来てとりなし、 ようやく首を七兵衛に戻したと、坂井土佐というさむらいが語っている。 」 「また同じ長連竜の家来に、とても力自慢の八田三助というのがいて、今弁慶と言われていた。 それが小松方の西脇左門と組み打ちして下敷きにし、首を掻き切ろうとしたとき、左門が、 『武士の作法だ、名を名乗らせてから打ち取れ』と叫んだ。 そこで三助が『さらば名乗れ』と言って一瞬気を緩めたとき、左門が三助を刎ね飛ばして、 逆にその首を打ち取ったという。 俺が教えた通りの首の取り方してるな。 一座の内に二人居たとしたら、身分よき人をその身分通りに、身分が下の者も同じようにもてなせ。 これは万事に渡る心得であるぞ。 次に、また人々が口癖で、変に面白い言葉使いたがるよな? 最近『以前にこれこれの事があった』という事を、『右にかやうの事御座候』なんて言うが、 こんなものに言われは無い! いいか?『右』というのは、例えば札や、その他書物などに何々と書きたて、その止まりに 『右条々』と書くものだ。 話し言葉で『右』なんて使ういわれは無い! 他所の連中がそんな事を話していても、我が家中においては『右』という言葉と 『冥加なき』と、『御念の御使』という言葉は通用しないと思え! だいたい冥加がないのなら良いことではないか! 念を入れるのは良い事だが、ただ『御念の御使』なんて言われても意味がわからん! こんな言葉を使うようなら、誰であっても罰則を申し付けるぞ!」 そう御立腹された。 諸人が言っていたことには、奥に召し使われている12,3、4歳ほどの子供の 善悪を目利きされて、召し使われていたとのこと。 彼らはどんなに難しい、長い金銭の出入であっても、色々に詮索し、首尾を合わせて 報告した。 ある時、政宗公が仰ったことには 「昔から今に至るまで少年を絶やさず召し使っているが、これは、はじめは難しいが、 心付くようになってからは、快いものである。 第一彼らは、正直を秘蔵している。 尤も、わやく者(聞き分けのない、わがままな者)は論外だ。 だいたい、少年で軽はずみな者は利もない所で 拗ねてしまう。 この奥意は皆、わやくである。 次第に年齢が上がるほど、少年も悪く擦れてきて、小使に使うには宜しくない心になってしまう。 後まあ、奥方で使う分には表立って名前が出ないのが、重宝なところだな。 」 と、お話されお笑いなされた。 ところで、岡部は去る冬に直之が蜂須賀陣へ夜討ちした時、口論して 共に出なかった事に腹を立てていた。 「今日は団右衛門に先陣を越させまい」と、岡部はなにくわぬ体で先へ乗り出した。 これに直之が声をかけて、 「約束の通り胴勢を揃えて攻め寄せようぞ」と言った。 岡部は振り返ったけれども、うんともすんとも答えずに 進んでいった。 直之は激怒して「侍の義理を違えて先を駆けるなら今日は必ず討死しろ!さもなくば男は立たないぞ!」 と言って、同じく駆け出した。 重政も「某は泉州路の案内をお受けしているというのに、後に残ることはできない」 と、同じく乗り出し、彼らは思い思いに馳せて行った。 (この後、浅野勢と戦って直之と重政は討死) ある本によると、この合戦が終わった後、米田監物、御宿越前守、上条又八らは安松にて岡部に向かい、 「団右衛門を捨て殺しにするようでは、男は立たんぞ」と悪口したところ、岡部は返答も無かった。 このため、彼らは大野主馬介治房に「臆病者を組に置かれることは無用です」と言った。 これに治房が、 「もっともな事ではあるが、今に至って物頭を追放するというのはどうしてだ。 御利運の上で」と言ったので、 皆々治房とは不和になったという。 ある本によると、岡部大学は塙団右衛門とは古い傍輩で、加藤嘉明の甥川村権七の母方の叔父だった。 大坂陣の時に城を出て剃髪し『愧世庵』と称した。 当時の人が大坂陣の事を尋ねれば「某は隠れもなき者であるが、 男のならぬ首尾のためにこのような身となった。 よって合戦のなりゆきは一切知らない」と答えたのだという。 季長が馬を射られてしがみついたり、 兜なくして脛当てかぶって戦ったりの、結構情けない描かれ方だから。 恩賞をもらえるように尽力してくれた、 安達泰盛らへの鎮魂のために描かせたものという説が一番妥当だと思うね。 出発にあたって氏郷は、領内で家中の勢ぞろいをさせ、前駆け、後駆けの手分けもし、 隊伍の編成も済ませると、自分の家重代の銀の鯰尾兜を近習に持たせ、ここにいろと命じて 軍勢の見分をしてまたこの場に戻ると、兜を持たせた近習はそこに居なかった。 この時氏郷は何も言わず、2度めの見分に行き、再びこの場に戻っても、またこの近習は居なかった。 彼には事情がありやむなくその場を外していたのであるが、氏郷は、主君の命を2度までも 蔑ろにしたという理由で、即座に太刀を抜くとその近習を切り捨てた。 これを見た家中の者達は唇を震わせて恐れ、以後、小田原やそれに続く奥羽の陣中で 誰もが厳しく軍律を守り、命に背くものは居なかった。 しかし彼は大剛の者であったので、義元公が召し抱えられるように、 勘介の知己であった朝比奈兵衛尉が彼のことを 「この山本勘介という者は、大剛であり、特に城取り、陣取りといった軍法は良く鍛錬されています。 剣術も京流の上手であり、軍配も良く知っています」 と申し上げたが、義元公がお抱えになることはなかった。 駿河の人々の噂では、あの山本勘介は第一片輪者であり、それに城取り陣取りの軍法を鍛錬したと いうが、自分の城を持ったこともなく、兵を持ったこともない者が、どうしてそのような事を 知れるものだろうか。 彼は今川殿に奉公したいがために虚言を言っているのだ、と言い合った。 それから勘介は9年も駿河にいたけれど、今川殿が召し抱えることはなかった。 この9年のうちに剣術のことで2,3度手柄があったが、この当時は新当流(塚原卜伝の流派) の兵法こそ本物であり、勘介の京流はそれに劣るものだと、人々は噂した。 加えて、勘介は牢人の身であったため、草履取りすら一人もつれておらず、彼について 非難するものこそ多かったが、良く言うものなど一人もいなかった。 しかし、この事は実は、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、 武士の道の見極めが浅く無案内であったために、山本勘介の身の上のことにまで、 悪い評判が及んだのであろう。 秀忠はその日の朝早くに政宗邸に到着。 御数寄屋へと迎えられた。 御相伴衆は曲直瀬道三法師、立花飛騨守(宗茂)、丹羽五郎左衛門(長重)であった。 この時、政宗は自身で御膳を秀忠に差し上げようとしたが、そこに秀忠の近習である 内藤外記が、土器に箸を一膳持って、政宗を追いかけてきて言った 「御膳の鬼(毒見)をしてから差し上げてください。 」 この言葉に、政宗は御膳を数寄屋の入り口に置くと、内藤に向かって激怒して叫んだ 「外記はいらぬことを申される!この政宗程の者が御成をして頂き、自身で御膳を 差し上げる上は、鬼をする所ではないぞ! 御膳に毒を入れるなどと考えていたのは、もはや10年も前のことだ! いや!10年前であっても、日本中の神にかけて!毒などで殺し奉ろうとは夢々思っておらぬ! 一度は攻め寄せてやろうとは考えていた。 」 (御膳に毒を入るるは早十年前の事なり。 十年前にも、日本の神をかけて、毒などにて 殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。 一度は乗寄せてこそとは思い候。 ) そう怒鳴っている所に立花宗茂が出てきて 「いやいや一段とお似合いのご挨拶です。 上様(秀忠)も感じ入っておられましたよ。 それにしても御膳が来るのが遅くなっています。 さあ、早く」 そう言ったため、政宗は毒見をさせること無く秀忠に御膳を差し上げた。 このとき秀忠は 「さてさて、頼もしきご挨拶かな」 と、直々に政宗に礼を言い、これには政宗も感動し、その場に居た諸人も、 さてもさてもと感じ入った。 数寄屋での饗しが終わると御書院に出て能などを見物され、暮に及んで秀忠は還御された。 申し訳ありません。 関が原で西軍だった宗茂がまあまあ、ってやるとこまで含めて台本っぽい感じもする。 政宗、文句つけても宗茂がでてきてうまくまとめてくれるとこまで推察してたりするんじゃなかろか……。 外様諸侯の相手をせねばならないのに、普段の不摂生がたたったのか体はいうことを聞かず 甚だしく熱を発し、生死の境をさまよう危篤状態が数日続いた。 これを不寝で看病していた医師の某はあらゆる薬を試したがどれもまったく効果が無い。 未だ服用していない薬が一つあったが、それは直政が以前家康より拝領した飲めば生死は二つに一つと言われる劇薬であった。 「これを用いるべきだろうか」 そう尋ねる直政に、匙を投げかけている医師の答えることには 「病ここに至った以上、用いるよりほかありますまい」 その言葉を聞いて劇薬を服用した直政、汐が引くように熱も下がり、みるみるうちに全快し八月十二日には監軍に復帰した。 しかし薬の服用を定めた医師某にはなんの褒美もなく、まもなく改易されてしまったという。 この時、嘉明は「かたじけなき恩命を拝受いたしましたが、会津は枢要の地でございます。 しかしながら、今となっては家臣の武事に馴れた者もすでに亡くなってしまいました。 この地を守る役目におこたえすることができません。 できることなら、松山にいたく存じます」 と、これを辞退した。 これに対して(将軍の?)「しかしながら、嫡子の明成がいる。 彼がどうしてお前に劣るだろうか。 無理に辞してはならない」との仰せがあったので、 嘉明はふたたび断るまでもなかった。 そして会津に移り、四十万石を領して若松城に住んだ。 片山伊賀は、大きなことをしたいと考えている人間であるので、もしもの時は謀反を起こすかもしれない。 彼の言葉にも良く気を使って、油断しないように。 徳山五兵衛は色々と他家と繋がって、大名たちとも知り合いになっているようだ。 私が生きている間はおとなしくしていたが、ずっと機会を伺っていたようなので、 私が死ねばきっと謀反を起こすだろう。 きちんと仕置をするように。 山崎長門は良い人物だ。 越中での合戦の時も良く働いた。 ただ少々意地が悪く、偏屈な武辺者なので、30人か40人の頭あたりが適当な処遇だ。 それ以上の軍勢の大将にしてはならない。 」 前田利家が、自分の家臣をどう見ていたか、という記録である。 ある年の元旦、御座の間において越前守(嫡子忠宗)に御祝いの義を仰せ上げられ着座した時、 何のついでという訳でもないが、語られたのは 「この吉光の脇差しは元日だけ、毎年挿している。 綾の小袖は伊達家において代々相渡されて いるので、着ている。 しかし人というものは、死後にばかり譲ると申すものだ。 私は、今日の幸いの日に、忠宗に 譲りたいと思う。 先ずこの、藤四郎の脇差しを渡そう。 これは天下に隠れない名物であり、太閤様(秀吉)より 脇手での働きの功を以って拝領したこと、諸人に隠れない事実である。 天下様より内々お望みが在ったが(秀忠の御成の時に、御進物としするよう幕閣に勧められた)、 これだけは進上するものではない。 伊達の家のある限り、代々相続し、秘蔵されるべきものだ。 返す返す言うが、他のものに渡すこと、あってはならんぞ。 その他、道具多い中でも、この歳まで影が身を離さないように秘蔵してきたのは、 日理来(わたりらい)の刀、景秀、ハバキ國行、以上の三腰である。 これらは我が命であるので、死後にも能く秘蔵されるべし。 日理来は日理代々の刀であり、この由来はだいたい疑いない。 ハバキ國行は昔はともハバキであったのを、本阿弥(光悦)の所で直させた。 これとても勝る刀はない。 景秀は高麗陣の時、日本の諸大名共出て試し切りをした時に、牛ほどもあるような大男を、 皆々切りあまし、捨て置いていたのだが、私が「この刀で斬るように。 」と伝えると、 そこに居た加藤肥後(清正)、浅野但馬はかねてから私と仲が悪かったので、 「皆の衆が持て余している以上、無用である!」 と言ってきた。 拒否されたからには、いよいよやってもらわねばならぬと思い、 刀を抜いて清正に渡して 「これは私の小姓の刀である。 これにて斬り給え!」 と言ってやると、清正は暫く考えていたので、私は先に無用だと言い切った態度からは 似合わぬことだと思い 「無理にでも斬れ!」 と言って斬らせた所、刀を振りぬくとたちまち胴が両断され、刀はそのまま、土壇の下に 5,6寸打ち込まれた。 これには流石の清正も肝をつぶしていたよ。 刀の方はなかなか引きぬくことが出来ず、結局鍬を使って掘り出した。 この刀にはそれだけではなく、他にも数度の手柄があった。 であるので、いよいよ秘蔵すべき 品なのだ。 只今これをお前に渡すが、ただし死後までは、私が預かっておく。 」 と仰せられた。 (政宗公御名語集) 政宗、秘蔵の刀についての話である。 であるので、いよいよ秘蔵すべき >品なのだ。 5月3日、小田原城の東側に陣を張っていた蒲生氏郷は、北条方の太田十郎氏房の夜討を受け、 激戦となりなんとか城まで押し戻したものの、主将の氏郷自身も、胸当てに3,4ヶ所の槍傷を受け、 十文字槍の柄も5ヶ所まで切り込まれており、有名な銀の鯰尾兜には、矢が二筋も立っていた。 それほど激しい競り合いであったのだ。 その夜の戦いで、氏郷の家臣である佃又右衛門は、夜襲と聞くや素肌(鎧を付けないこと)で 駈け出して敵と槍を合わせたのだが、この合戦の後、氏郷は佃に声をかけて 「あの時は汝もいささか狼狽していたようだな。 槍の鞘をはずさず戦っているところを見たぞ。 」 と言った。 佃はこれを聞くと 「!、あの闇夜の中、見ぬかれた殿のご眼力には恐れ入ります。 私は前夜、雨模様であったため 槍に鞘をかけていたのですが、火急の事ゆえついそのまま合戦に及びました。 」 「えっ?」 「え?」 「何だ又右衛門、それはまことか?」 「…え?」 「オレは冗談のつもりで言ったのだが…。 本当に鞘をつけたまま戦ったのか。 」 「…え!?」 又右衛門は『しまった!』という顔をしたが、氏郷は又右衛門が正直なの事を笑って褒めた。 しかし佃又右衛門は、後に同僚たちに 「空がいかに曇って雨模様とはいえ、鞘をかけたまま敵前に出ては武士の面目に関わる。 あの時私は、ちゃんと鞘は取っていたのだ! しかし大将が鞘を取っていなかったというのに、取っていたと言ってはかえって自分の功を 言い立てているようでみっともないので、大将に花を持たせてああ言ったのだ。 」 と笑って言ったそうだ。 (関八州古戦録) そんな小田原の陣での、蒲生軍の一コマ。 それに老年の身で一味しても無益だ」と応じなかった。 その後も三成は再三使いを立てて「無勢ならば紀伊国新宮の城主、堀内氏善が属するであろうから、 かの手の人数を従えて、指図をなさっていただきたい」と、しきりに申し送ってくるので、 嘉隆は「このうえ断れば命を惜しむようなものだ」と、止むを得ず三成に味方し、息子守隆の 鳥羽の城を奪い、氏善とともにこの城に立て籠もった。

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【ニッポン城めぐりクイズの答え】6/2 奥州仕置において、石川昭光は次のうちどのように処遇されたか?

奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか

---------------------------- 【あ】 愛澤清左衛門【あいざわきよざえもん(15?? ~15?? )】 相馬義胤家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で相馬義胤に従い亘理重宗勢と戦い戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 会田遠江守【あいだとうとみのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡蒲谷館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 青木玄蕃允【あおきげんばのしょう(15?? ~15?? )】 懸田俊宗家臣。 1571年、伊達実元に内応した。 1576年、「川俣の戦い」で戦功を挙げた。 青木胤綱【あおきたねつな(15?? ~15?? )】 青木玄蕃允の男。 官途は弾正忠。 伊達実元に仕え田村清顕との取次役を務めた。 青木綱広【あおきつなひろ(15?? ~15?? )】 青木胤綱の男。 官途は備前守。 1586年、「人取橋の戦い」では、小浜城留守居を務めた。 1595年、伊達成実が出奔すると、伊達政宗に仕え200石を領した。 青田常久【あおたつねひさ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 新山館主。 通称右衛門尉。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常義【あおたつねよし(1498~1525)】 青田常久の男。 通称孫四郎。 1525年、「白戸館の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常高【あおたつねたか(1514~1542)】 青田常義の男。 通称左衛門尉。 官途は能登守。 智勇兼備の将。 1540年、「三春城の戦い」では、寡兵をもって岩城由隆勢を壊滅させた。 1542年、「掛田城の戦い」で伊達晴宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常清【あおたつねきよ(1540~1589)】 青田常高の男。 通称右衛門尉。 1589年、「新地館の戦い」で伊達政宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田常治【あおたつねはる(15?? ~16?? )】 青田常清の男。 山沢館主。 通称孫左衛門。 1602年、相馬義胤が減封処分に処されると、中村城下に転封した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田高治【あおたたかはる(15?? ~16?? )】 青田常治の男。 通称孫左衛門。 137石を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 青田治之【あおたはるゆき(15?? ~15?? )】 青田常義の次男。 通称六郎。 相馬盛胤に仕えて宇多郡富沢城主に任じられた。 伊達輝宗勢との戦いで戦功を挙げた。 青田胤清【あおたたねきよ(15?? ~15?? )】 青田常久の次男。 官途は信濃守。 通称太郎右衛門。 別名青田胤治。 1525年、「白戸館の戦い」で兄青田常義が討死したため、青田家の家督を相続した。 1543年、相馬顕胤の意向を受け江井胤治とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。 1543年、木幡盛清と対立したため、草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こした。 1563年、「黒木城の戦い」で宇多郡中村城代草野直清と結んで相馬盛胤に謀反を起こし、伊達晴宗の家臣舟山豊前守、大谷地掃部勢を領内に引き込んだ。 「礒部館の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢は、礒部館を守る佐藤好信に撃退された。 「貝殻坂、石積坂の戦い」で舟山豊前守、大谷地掃部勢とともに高田内膳と戦ったが敗れ中村城に退却した。 田村清顕のもとに落延びた。 参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。 青田顕治【あおたあきはる(15?? ~15?? )】 青田常義の三男。 官途は信濃守。 青田常治【あおたつねはる(15?? ~15?? )】 青田顕治の次男。 通称修理亮。 青田石見守【あおたいわみのかみ(15?? ~15?? )】 相馬義胤家臣。 1576年、「冥加山の戦い」で湯村備後守を討取る戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 赤坂貞光【あかさかさだみつ(15?? ~15?? )】 東白川郡赤坂館主。 官途は宮内大輔。 通称左馬助。 別名赤坂政光。 1560年、東義久に内応して佐竹義重勢に属した。 東義久勢に従い北関東、南奥州を転戦した。 参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。 赤坂朝光 【あかさかあさみつ(1555~16?? )】 赤坂貞光の男。 官途は下総守。 智勇兼備の将。 1588年、「常陸玉里の戦い」では、大塚成貞勢と戦った。 1590年、佐竹義宣から所領を安堵された。 1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封になると、それに従った。 参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。 赤坂光忠【あかさかみつただ(1538~15?? )】 赤坂貞光の次男。 白河郡渡瀬館主。 官途は右馬助。 赤坂光次【あかさかみつつぐ(15?? ~15?? )】 赤坂貞光の三男。 白河郡山王山館主。 赤石沢美濃守【あかいしざわみののかみ(15?? ~15?? )】 石沢修理亮家臣。 家老職を務めた。 1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受けると、相馬盛胤に内応して城内に火を放ち、相馬盛胤勢を引き込んだ。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 赤沼弾正忠【あかぬまだんじょうちゅう(15?? ~15?? )】 田村郡赤沼館主。 田村家四十八館。 250石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 赤橋元胤【あかはしもとたね(15?? ~15?? )】 相馬顕胤の四男。 戦に出れば先陣を務め「槍の赤橋」と恐れられた。 初陣で頸級十二をあげる戦功を挙げた。 剛の者だが軍略にも通じていた。 阿久津右京【あくつうきょう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡阿久津館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 浅川義純【あさかわよしずみ(15?? ~15?? )】 石川郡浅川城主。 官途は大和守。 石川晴光、佐竹義重と結び、白河結城義親、田村隆顕らと戦った。 1573年、石川晴光と佐竹義重が争うと、仲裁に奔走して和議を結ばせた。 1577年、「浅川城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け浅川城を追われた。 1582年、継嗣の浅川豊純とともに浅川城に復帰した。 1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が伊達政宗に滅ぼされると、石川昭光とともに伊達政宗に降伏した。 1590年、「奥州仕置」で石川昭光とともに改易処分に処され、伊達政宗に仕えた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 浅川豊純【あさかわとよずみ(15?? ~15?? )】 浅川 義純の男。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 芦沢修理太夫【あしざわしゅりだいふ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡芦沢館主。 東方衆50騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 足羽太郎兵衛【あしわたろうべい(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡下枝館主。 西方衆50騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 足立刑部【あだちぎょうぶ(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 穴沢新助【あなさわしんすけ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡三城目館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 安部善四郎【あべぜんしろう(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 安倍清任【あべきよさだ(15?? ~1582)】 大寺清光家臣。 官途は備後守。 1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い副将を務め、油殻平で石川昭光勢の挟み撃ちに遭い討死した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 安倍常任【あべつなこれ(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 官途は但馬守。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 荒井式部【あらいしきぶ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡荒井館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 荒藤八郎【あらふじはちろう(15?? ~15?? )】 相馬盛胤家臣。 1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 荒縫殿助【あらぬいどのすけ(15?? ~15?? )】 相馬盛胤家臣。 1576年、「冥加山の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢の沼部玄蕃を討取り、赤地に白巴の旗を奪い取る戦功を挙げた。 1580年、伊達輝宗勢の二騎を討取る戦功を挙げた。 1589年、「鳥海の戦い」で亘理重宗の家臣鷲足掃部を討取る戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 荒掃部助【あらかもんのすけ(15?? ~1568)】 相馬盛胤家臣。 1568年、「小野金谷の戦い」で討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 粟野易意【あわのえきい(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通称右近。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 飯野隆至【いいのたかよし(1504~1578)】 岩城成隆家臣。 官途は式部大輔。 禰宜職を安堵された。 伊達晴宗との取次役を務めた。 参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ。 飯淵九郎左衛門【いいぶちころうざえもん(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で伊達政宗勢の追撃を受け相馬盛胤の馬が橋を踏み抜いて動けなくなったところを馬上に引き上げて救出する功を上げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 石井甚七郎【いしいじんしちろう(15?? ~15?? )】 田村清顕家臣。 1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い田村兵部少輔の鉄炮衆を率いて大内定綱勢と戦った。 「糠沢の戦い」で大内定綱の家臣大内弥右衛門を討取る戦功を挙げた。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 石川稙光【いしかわたねみつ(1494~1530)】 石川郡三芦城主。 室は田村隆顕の娘。 1524年、伊達稙宗、二階堂晴行、芦名盛舜らと結び岩城重隆、結城晴綱勢に対抗した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川晴光【いしかわはるみつ(1528~1580)】 石川稙光の男。 官途は修理大夫。 通称小太郎。 室は石川胤光の娘。 1530年、父石川稙光の病没により石川家の家督を相続した。 1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。 乱以後、田村隆顕、芦名盛氏の勢力争いに巻き込まれ所領を削られた。 1560年、「寺山城の戦い」で佐竹義昭が結城晴綱から白川郡を奪取すると、赤坂貞光が佐竹義昭に内応した。 1563年、伊達晴宗と結び、伊達晴宗の四男石川昭光を養子に迎え石川家の存続を図った。 1568年、石川昭光に家督を譲って隠居した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川昭光【いしかわあきみつ(1550~1622)】 伊達晴宗の四男(石川晴光の養子)。 官途は大和守。 通称小二郎。 室は石川晴光の娘(照子)。 1568年、養父の石川晴光が隠居したため、石川家の家督を相続した。 実父伊達晴宗や兄伊達輝宗勢に属して、田村清顕、佐竹義重勢と戦った。 1574年、芦名盛氏が佐竹義重と白川郡、石川郡を巡って争い、芦名盛氏が石川郡の支配権を失うと、佐竹義重勢に属した。 1585年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣した。 1589年、「摺上原の戦い」で芦名義広が滅亡すると、伊達政宗に従った。 1590年、「奥州仕置」で改易処分に処され伊達政宗に仕えた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川義宗【いしかわよしむね(1577~1610)】 石川昭光の男。 1590年、「奥州仕置」で父石川昭光が改易処分に処されると、石川昭光とともに伊達政宗に仕えた。 1595年、伊具郡角田城に任じられ12,000石を領した。 1603年、父石川昭光の隠居により石川家の家督を相続した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川宗敬【いしかわむねたか(1607~1668)】 石川義宗の男。 官途は駿河守。 室は伊達政宗の娘(牟宇姫)。 1610年、父石川義宗が病没すると、祖父石川昭光が後見役を務めた。 1621年、石川家の家督と角田城12,000石を相続した。 1638年、阿武隈川治水工事の惣奉行職を務めた。 堤防工事は総延長2,792間に及び、その後の領地内の新田開発のもととなった。 1644年、刈田郡湯原館に転封した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 石川末光【いしかわすえみつ(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 通称松之助。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 石川弾正忠【いしかわだんじょうちゅう(15?? ~15?? )】 田村清顕家臣。 1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 石沢修理亮【いしざわしりのじょう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 1,800石を領した。 常盤城主の常盤貞久が田村清顕から疎まれ、相馬盛胤のもとに落延びると、常盤城代に任じられた。 1586年、田村清顕が病没すると、その後継者を巡り家中が対立すると、伊達政宗を支援した。 1589年、「常盤城の戦い」で相馬盛胤、岩城親隆勢の攻撃を受け、城兵600余りとともに防戦したが、赤沢美濃守が内応したため落城した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 石沢茂太夫【いしざわしげだいふ(15?? ~15?? )】 田村清顕家臣。 1585年、「小手森館の戦い」では、伊達政宗勢に属した田村清顕に従い大内定綱勢と戦い負傷した。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 石盛因幡守【いしもりいなばのかみ(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光が大寺清光を降伏に追い込むと、中野館、塩沢館、山小屋館を割譲させると、山小屋館を領した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 泉田胤直【いずみだたねなお(14?? ~15?? )】 標葉隆成家臣。 標葉郡泉田館主。 泉田隆家の男。 官途は隠岐守。 1492年、「泉田城の戦い」で相馬盛胤勢の攻撃を受けが、標葉隆成から援軍を得ることができず降伏に追い込まれた。 その後、相馬盛胤に仕えた。 泉田胤清【いずみだたねきよ(1563~1602)】 泉田胤直の男。 官途は甲斐守。 標葉衆25騎余りを率いた。 1589年、「新地城の戦い」で伊達政宗の家臣亘理重宗勢の攻撃を受け相馬盛胤もとに落延びた。 参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。 泉田胤雪【いずみだたねゆき(1563~15?? )】 泉田胤清の男。 官途は隠岐守。 智勇兼備の将。 継嗣の泉田胤清とともに伊達政宗勢の攻撃を何度も防いだ。 1588年、「小手森館の戦い」では、相馬義胤の意向を受け大越顕光とともに小手森城を守備した。 伊達政宗、田村清顕らの猛攻に耐え抜いた。 泉田胤清【いずみだたねきよ(15?? ~1602)】 泉田胤雪の男(祖父と同名)。 1589年、「坂本館の戦い」で相馬義胤勢の後陣(標葉衆300余り)を率いて参陣した。 1602年、病没したが継嗣がなく、娘聟の泉胤政が泉田館主に任じられた。 泉胤定【いずみたねさだ(15?? ~1569)】 行方郡泉館主。 通称は左衛門太夫。 泉村3,000石を領した。 泉家の菩提寺宝月山東泉院を再興した。 1569年、「丸森城の戦い」で伊達輝宗勢との戦い討死を遂げたため、田村清顕の家臣泉胤秋(中津川大膳亮)が堀内近胤の娘を娶り泉家を相続した。 泉胤秋【いずみたねあき(15?? ~1587)】 中津川兵衛左の男(泉胤定の養子)。 通称は大膳。 別名中津川大膳亮。 室は堀内近胤の娘。 継室は畠山尚義の娘。 相馬顕胤の弟堀内近胤の娘を娶り、堀内家を相続していたが、内室とそりが合わず堀内家を退去した。 小浜城主畠山尚義の娘を娶った。 継嗣の泉胤政が泉家を相続したが幼少のため後見役を務めた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 泉胤政【いずみたねまさ(15?? ~1633)】 泉胤秋の男。 通称藤右衛門。 1597年、相馬義胤は居城を小高城を牛越城に移すにあたり、泉胤政も人夫を差し出したが相馬義胤と泉胤政の人夫奉行が口論に及んだ。 泉胤政が謀反を企てたとして、相馬義胤は泉胤政追討勢を泉館に発した。 泉胤政は相馬義胤勢が来る前に館を焼いて出奔した。 泉藤六郎【いずみとうろくろう(15?? ~1590)】 相馬盛胤家臣。 1590年、「中村城の戦い」で相馬隆胤に従い亘理重宗勢と戦い、亘理重宗勢に包囲された相馬隆胤を支援して討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 伊東祐勝【いとうすけかつ(15?? ~1583)】 白河郡三城目館主。 1583年、「三城目館の戦い」で中畠晴辰勢の攻撃を受け討死した。 井戸川清則【いどがわきよのり(15?? ~1524)】 相馬盛胤家臣。 官途は大隅守。 標葉六騎衆。 1524年、「鎌田川の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 井戸川正則【いどがわまさのり(15?? ~1570)】 相馬盛胤家臣。 官途は将監。 1570年、「丸森城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 猪狩親満【いのかりちまみつ(15?? ~15?? )】 田村顕基家臣。 通称中務。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 猪狩下野守【いのかりしもつけのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡牧野館主。 350石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 猪俣濁清【いのまただくせい(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通称彦右衛門。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 今泉山城守【いまいずみやましろのかみ(15?? ~15?? )】 田村郡高倉館主。 1,000石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 今田六郎【いまだろくろう(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岩城盛隆【いわきもりたか(14?? ~15?? )】 磐前郡平城主。 岩城常隆の男。 父岩城常隆から岩城家惣領職の家督を譲れたが、弟の岩城由隆とともに共同統治体制で岩城家の家政を動かした。 岩城由隆【いわきよしたか(15?? ~1542)】 岩城常隆の次男。 官途は民部大輔。 兄岩城盛隆とともに岩城家の家政を動かした。 1514年、「永正の乱」で足利政氏、足利高基親子が争うと、佐竹義舜とともに足利政氏勢に属し足利高基に属した宇都宮忠綱や結城政朝と戦った。 結城顕頼と那須政資の争うと、結城顕頼勢に属して那須政資と戦った。 足利高基と那須政資の勝利により、南奥州の覇権を握ることは出来なかった。 岩城成隆【いわきなりたか(15?? ~15?? )】 岩城由隆の男。 1542年、父岩城由隆が病没すると岩城家の家督は次男の岩城重隆が相続して岩城成隆は分家して白土家を興した。 岩城成隆は江戸忠通と結び佐竹義篤と争い常陸国への勢力拡大を図ったが失敗した。 岩城重隆【いわきしげたか(15?? ~1569)】 岩城由隆の次男。 通称二郎太郎。 官途は左京大夫。 結城晴綱と結び、伊達稙宗と結んで勢力を拡大するの相馬盛胤や田村隆顕と対抗した。 娘の久保姫の嫁ぎ先を巡って伊達晴宗と相馬盛種が対立したが、久保姫は伊達晴宗に嫁いだ。 1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢に属した相馬盛胤や田村隆顕と争い、後に伊達晴宗勢に内応した芦名盛氏とともに南奥州各地を転戦した。 伊達晴宗と田村隆顕や畠山義国の内部抗争を誘発させ、弱体化を図るなど調略も駆使した。 伊達輝宗、芦名盛氏、佐竹義昭らの諸家との間で外交を駆使し生き残りを図った。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 岩城親隆【いわきちかたか(1537~1594)】 伊達晴宗の男(岩城重隆の養子)。 官途は左京大夫。 室は佐竹義昭の娘。 1534年、伊達晴宗と岩城重隆との約束により、岩城重隆の養嗣子となって岩城家の家督を相続した。 田村清顕や石川家の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、養父岩城重隆の外交重視路線を世襲した。 1568年、岩城重隆が病没後、岩城親隆も病に倒れた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 岩城常隆【いわきつねたか(1567~1590)】 岩城親隆の男。 官途は左京大夫。 1568年、父岩城親隆が病に倒れると、佐竹家出身の岩城親隆夫人が後見役を務めたことにより岩城家の実権は、佐竹義重が握った。 1578年、岩城常隆が岩城家の家督を相続するが、佐竹義重の家中に対する影響力は変わらなかった。 1586年、「人取橋の戦い」では、佐竹義重勢に属して参陣して、家臣の窪田十郎が伊達政宗の家臣鬼庭良直を討取った。 1589年、「摺上原の戦い」で芦名盛重が滅亡すると、岩城常隆、石川昭光らは伊達政宗勢に属した。 「小田原の役」に参陣して所領を安堵を受けた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 岩城政隆【いわきまさたか(1590~1615)】 岩城常隆の男。 通称長次郎。 1589年、「小田原の役」の参陣した父岩城常隆が病没すると、岩城家惣領職の家督は佐竹義重の三男岩城貞隆が相続したため、岩城家から追放された。 1607年、伊達政宗に仕えた。 岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】 佐竹義重の三男(岩城常隆の養子)。 1589年、「小田原の役」で岩城常隆が病没し、岩城家惣領職の家督は羽柴秀吉の介入を受け佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。 1600年、「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣勢に従い参陣しなかったため、改易処分に処された。 この処分に対して佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。 松平元康に岩城家再興を嘆願した結果、本多正信に仕えた。 1616年、信濃中村城10,000石を領して諸侯に列した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 上野但馬守【うえのたじまのかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 上野延命【うえのえんめい(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通称善九郎。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 鹽田銀之助【えんたぎんのすけ(15?? ~15?? )】 渡邊又左衛門家臣。 1576年、「坂本城の戦い」で扇の大地紙の指物で伊達輝宗勢に斬り込み、武勇を振る戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 江井胤治【えいたねはる(1504~1589)】 相馬顕胤家臣。 標葉郡江井館主。 官途は河内守。 標葉郡四七人衆。 1543年、相馬顕胤の意向を受け青田胤清とともに黒木信房、中村義房、黒木知房を謀殺した。 1589年、「三春城の戦い」で相馬義胤に従い田村顕盛勢と戦い討死した。 参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。 遠藤良知【えんどうよしとも(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 通所半内。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 遠藤四郎左衛門【えんどうしろうざえもん(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 遠藤右近【えんどうさこん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡手代木館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大井胤重【おおいたねしげ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡大井館主。 通称太郎左衛門。 標葉郡四七人衆。 中郷で107貫文を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大井太郎左衛門【おおいたろうざえもん(15?? ~15?? )】 大井胤重の男。 通称太郎左衛門。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大井胤元【おおいたねもと(15?? ~15?? )】 大井太郎左衛門の男。 通称一学。 相馬義胤に召しだされ200石を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤通【おおうちたねみち(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 行方郡大内館主。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤玄【おおうちたねげん(15?? ~15?? )】 行方郡大内南館主。 通称三郎。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤正【おおうちたねまさ(15?? ~15?? )】 大内胤玄の男。 官途は丹波守。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤信【おおうちたねのぶ(15?? ~15?? )】 大内胤正の男。 官途は越前守。 相馬顕胤、相馬盛胤に仕え戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内信顕【おおうちのぶあき(15?? ~15?? )】 大内胤信の男。 通称治兵衛。 相馬義胤に仕えて戦功を挙げた。 1617年、訴訟に加わり浪人した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大内胤房【おおうちたねふさ(15?? ~1576)】 相馬盛胤家臣。 官途は上野守。 1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大浦雅楽【おおうらうらく(15?? ~15?? )】 藤崎摂津守家臣。 1589年、「駒ヶ嶺城の戦い」で亘理重宗勢の攻撃を受け藤崎摂津守とともに相馬盛胤のもとに落延びた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大浦下総介【おおうらしもふさのすけ(15?? ~1576)】 相馬盛胤家臣。 1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大浦監物【おおうらけんもつ(15?? ~1576)】 相馬盛胤家臣。 1576年、「坂本城の戦い」で相馬義胤に従い伊達輝宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大河原丹後守【おおかわらたんごのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡耕田館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大木吉貞【おおきよしさだ(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 通称伊賀之助。 1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大越常光【おおごえつねみつ(15?? ~1543)】 田村隆顕家臣。 官途は山城守。 田村郡大越館主。 田村家四天王。 大越館10,000石を領して東方衆50騎余りを率いた。 1543年、「安積の戦い」で田村隆顕に従い伊東佑継勢と戦い討死した。 大越利顕【おおごえとしあき(15?? ~15?? )】 大越常光の男。 官途は摂津守。 大越顕光【おおごえあきみつ(1525~1589)】 大越利顕の男。 官途は紀伊守。 室は大越甲斐守の妹。 別名大越信貫。 1586年、田村清顕が病没すると、相馬義胤勢に属して伊達政宗勢と戦ったが敗れた。 1588年、「大越館の戦い」では、伊達政宗の家臣伊達成実勢の攻撃を受け、他の相馬義胤派とともに岩城常隆もとに落延びた。 1589年、伊達政宗は、追放とした相馬義胤派諸将の赦免を行った。 大越顕光、田村顕盛らとともに帰参を図ったが、岩城常隆に露見して捕縛され自刃に追い込まれた。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大越紀伊守【おおごえきいのかみ(15?? ~15?? )】 大越利顕の次男。 田村郡西方館主。 別名千葉紀伊守。 西方館316石を領した。 大越甲斐守【おおごえかいのかみ(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 1582年、「守山館の戦い」では、橋本顕徳、常葉讃岐守、浅川右馬介、大越修理亮等らとともに二階堂行親勢を撃退した。 1589年、大越顕光が岩城常隆に謀殺されると大越城代に任じられた。 大越孫七郎【おおごえまごしちろう(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 田村郡広瀬館主。 東方衆50騎余りを率いた。 大越新五郎【おおごえかいのかみ(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 鉄砲大将を務め、鉄砲足軽50余りを率いた。 大越八郎左衛門【おおごえはちろうざえもん(15?? ~15?? )】 大越顕光家臣。 大多和泉守【おおたいずみのかみ(15?? ~15?? )】 田村郡中山館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 太田越後守【おおたえちごのかみ(15?? ~15?? )】 相馬盛胤家臣。 1576年、「冥加山の戦い」で杉目将監を槍で突き落とし、頸を上げる戦功を挙げた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大竹秀延【おおたけひでのべ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡阿生田館主。 官途は筑後守。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 太田信濃守【おおたしなのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡春山館主。 1,500石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大塚綱久【おおつかつなひさ(15?? ~1541)】 佐竹義舜家臣。 1505年、結城顕頼に内応して羽黒山城代に任じられた。 1541年、佐竹義篤の家臣渋江内膳勢の攻撃を受け斑目広基、河東田大膳らとともに迎撃したが、衆寡敵せず討死した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大塚国久【おおつかくにひさ(15?? ~15?? )】 大塚綱久の男。 大塚吉久【おおつかよしひさ(15?? ~15?? )】 大塚国久の男。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大塚為久【おおつかためひさ(15?? ~1578)】 大塚国久の次男。 1564年、「羽黒山城の戦い」で佐竹義昭勢の攻撃を受け落延びた。 1578年、「浅川城の戦い」で浅川義純を攻撃して弓で射られ討死した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大塚政成【おおつかまさなり(1504~1563)】 岩城重隆家臣。 大塚行成の男。 官途は信濃守。 佐竹義昭に内応した。 参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。 大塚尾張守【おおつかおわりのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡羽出庭館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大塚蔵人【おおつかくらうど(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大塚甚助【おおつかじんすけ(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大坪勘解由【おおつぼかげゆ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大寺清光【おおでらきよみつ(15?? ~15?? )】 石川郡大寺城主。 官途は中務大輔。 1582年、「油殻の戦い」で中野館の所領問題か石川昭光と対立して謀反を起こした。 家老職の大野行宗を総大将に石川昭光勢と戦ったが、石川昭光勢の挟み撃ちに遭い安倍清任、野口金光らが討死して大敗した。 石川昭光勢の追撃を受け、大野宗高、安倍常任らとともに降伏した。 千用寺秀芸と長泉寺泰念を仲介に中野、塩沢、山小屋の三ヶ村を石川昭光に割譲して和議を結んだ。 1588年、二階堂盛義、岩城常隆らと結んで巻き返しを図ったが、伊達政宗と結んだ石川昭光に対抗できず没落した。 参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。 大寺安吉【おおでらやすよし(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 通称主殿之助。 1582年、「油殻の戦い」で大野行宗に従い石川昭光勢と戦い敗退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大寺安房守【おおでらあわのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡谷田川館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 大野宗高【おおのむねたか(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 官途は筑前守。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大野行宗【おおのゆきむね(15?? ~15?? )】 大寺清光家臣。 官途は修理殿介。 家老職を務めた。 1582年、「油殻の戦い」で総大将として石川昭光勢と戦い敗退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 大悲山民部【おおひやまみんぶ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 1543年、小高郷出騎衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大悲山民部丞【おおひやまみんぶのじょう(15?? ~15?? )】 大悲山民部の男。 相馬義胤に仕えた。 1592年、31貫905文を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大悲山杢左衛門【おおひやましょうざえもん(15?? ~16?? )】 大悲山民部丞の男。 通称九左衛門。 別名大久杢左衛門。 1602年、相馬義胤が減封に処されると、北郷内で36石を領した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 大村豊後守【おおむらぶんごのかみ(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡崎彦六郎【おかざきひこしろう(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 小笠原彦七郎【おがさわらひこしちろう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡大倉館主。 665石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 岡田義胤【おかだよしたね(14?? ~15?? )】 行方郡岡田館主。 官途は安房守。 1492年、「権現堂城の戦い」で相馬盛胤に従い標葉清隆の権現堂城を攻撃した。 標葉清隆の家臣泉田隆直が内応すると、標葉六騎七人衆、標葉隆豊、牛渡九郎兵衛らも内応した。 相馬盛胤が権現堂城を攻落とすと、権現堂城主に任じられた。 継嗣の岡田重胤に家督と岡田館を譲り、次男の岡田胤連とともに権現堂城に転封した。 岡田茂胤【おかだしげたね(15?? ~15?? )】 岡田義胤の男。 通称は治部大輔。 室は大槻義治の娘。 小高衆の筆頭として25騎余りを率いて相馬顕胤、相馬盛胤に仕えた。 岡田直胤【おかだなおたね(1560~1591)】 岡田茂胤の男。 相馬盛胤勢で20騎以上を率いるのは、他に泉田胤清(標葉郷大将)、泉胤政(中郷大将)の二人のみであった。 1563年、伊達晴宗に内応じて謀反を起こした草野直清の娘を育て、岡田直胤と娶わせた。 また娘は泉胤政に嫁いだ。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤景【おかだたねかげ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 岡田茂胤の次男。 草野館主。 官途は治部太輔。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤景【おかだたねかげ(1565~1620)】 岡田胤景の男。 官途は兵庫助。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤清【おかだたねきよ(1595~1620)】 岡田胤景の男。 官途は主膳。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田胤通【おかだたねみち(15?? ~1543)】 相馬顕胤家臣。 大甕館主。 1543年、「大森城の戦い」で相馬顕胤に従い伊達晴宗勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 岡田豊後守【おかだぶんごのかみ(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 小川隆勝【おがわたかかつ(15?? ~15?? )】 岩城常隆家臣。 岩城常隆の使者として羽柴秀吉に謁見した。 返書が増田長盛より小川隆勝に返書が送られた。 小川上総介【おがわかずさのすけ(15?? ~15?? )】 岩城常隆家臣。 1589年、芦名盛重から参陣を要請を受けた。 小川大蔵丞【おがわおおくらのじょう(15?? ~15?? )】 小川上総介の男。 1584年、下野国で北条氏直勢と戦いで戦功を挙げた。 鬼生田惣右衛門【おにうだそうえもん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡鬼生田館主。 官途は弾正忠。 田村家四十八館。 鬼生田館1,500石を領して西方衆25騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 小野備前守【おのびぜんのかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 小原宗綱【おばらむねつな(15?? ~15?? )】 伊達稙宗家臣。 刈田郡小原館主。 1542年、「伊達天文の乱」で伊達稙宗勢に属して伊達晴宗勢と戦った。 伊達稙宗の敗北により家督を継嗣の小原元継に譲って隠居した。 小原元継【おばらむねつぐ(15?? ~15?? )】 小原宗綱の男。 1542年、「伊達天文の乱」で父小原宗綱が伊達稙宗に属して戦った。 伊達稙宗の敗北により家督を小原元継に譲って隠居した。 小原定綱【おばらさだつな(1555~1592)】 伊達政道家臣。 小原宗綱の次男。 通称縫殿之助。 伊達輝宗の次男である伊達政道の傅役を務めた。 1591年、伊達政道が謀反を嫌疑を受け、伊達政宗に謀殺されると、その遺骸の埋葬場所を求めて各地を流浪した。 埋葬後、墓前で殉死した。 折笠左近【おりかささこん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡道渡館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 ---------------------------- 【か】 貝山藤兵衛【かいやまとうべい(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡貝山館主。 700石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 河東田重治【かとうだしげはる(15?? ~15?? )】 結城晴綱家臣。 白河郡河東田館主。 河東田重清【かとうだしげきよ(1542~1606)】 河東田重治の男。 官途は上総介。 領内に善政を敷き、民衆に支持された。 伊達輝宗との取次役を務めた。 1576年、「赤館城の戦い」では、結城義親に従い参陣して佐竹義重勢と戦った。 1589年、結城義親が伊達政宗に降伏すると、佐竹義重への備えとして関和久城を守備した。 1590年、結城義親が改易処分に処されると、伊達政宗に仕えた。 参考文献:『戦国武将総覧1000(東国編)』 byコーエーテクモゲームス。 河東田親顕【かとうだしげきよ(15?? ~15?? )】 河東田重清の男。 河東田河内守【かとうだかわちのかみ(15?? ~15?? )】 結城義親家臣。 1575年、「白河城の戦い」で佐竹義重勢の攻撃を受け降伏した。 東義久に従い所領を安堵された。 河東田備前守【かとうだびぜんのかみ(15?? ~15?? )】 河東田河内守の男。 官途は兵部少輔。 1575年、父河東田河内守とともに東義久に従い30貫文の所領を安堵された。 赤館城に在番した。 門沢式部【かどさわしきぶ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡門沢館主。 600石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 門沢右馬助【かどさわさまのすけ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡栗出館主。 360石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 金沢胤重【かなざわたねしげ(15?? ~1524)】 相馬盛胤家臣。 通称右馬助。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で相馬顕胤に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢主水【かなざわもんど(15?? ~1524)】 金沢胤重の男。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢大学【かなざわもんど(15?? ~1524)】 金沢胤重の男。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で父金沢胤重に従い岩城重隆勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢胤清【かなざわたねきよ(15?? ~1532)】 金沢胤重の弟。 官途は石見守。 別名「存入」。 1524年、「七里ヶ浜の戦い」で兄金沢胤重が岩城重隆勢と戦い討死したため、還俗して金沢家の家督を相続した。 1532年、「古小高俊胤の乱」で相馬顕胤に従い先陣を務め討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金沢備中守【かなざわびっちゅうのかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡四七人衆。 牛越城番を務めた。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 金内八十郎【かねうちはちじゅうろう(15?? ~15?? )】 石川昭光家臣。 1582年、「油殻の戦い」で石川昭光に従い大寺清光勢と戦い撃退した。 参考文献:『野木沢風土記 中野編』by矢吹広実。 金田式部少輔【かねだしきぶしょうゆう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 東方衆50騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 神又久四郎【かみまたしさしろう(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡神又館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 萱野甚四郎【かやのじんしろう(15?? ~1590)】 亘理元宗家臣。 1590年、「石上村、小豆畠の戦い」で亘理重宗に従い黒木宗俊、佐藤藤右衛門とともに中村城主相馬隆胤勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 苅屋戸出雲守【かりやどいずものかみ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 川曲宮内太夫【かわまがりくないだいふ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡川曲館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 神主玄蕃頭【かんぬしげんばのかみ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡守山館主。 西方衆80騎の寄騎衆を率いた。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 菊池兵部太夫【きくちようぶだいふ(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡南宇津志館主。 523石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 喜多八十右衛門【きたやそえもん(15?? ~15?? )】 黒木丹波守家臣。 1581年、「大条館の戦い」で伊達輝宗の家臣富塚近江守勢を撃退する戦功を挙げた。 参考文献:『独眼竜政宗』by講談社文庫。 木村信常【きむらのぶつね(15?? ~1579)】 田村清顕家臣。 田村郡木村館主。 官途は内記。 1579年、「木村館の戦い」で畠山義継に内応して新城少弼、遊佐下総守勢を木村館に引き入れが、田村清顕の家臣鬼生田弾正忠勢の反撃を受け滅亡した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 久我主膳【くがしゅぜん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡白岩館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 草野直清【くさのなおきよ(1514~1563)】 相馬顕胤家臣。 官途は式部。 標葉郡四七人衆。 相馬顕胤から信頼され中村城代に任じられた。 相馬顕胤が病没すると、相馬盛胤に冷遇された。 1563年、「中村城の戦い」で青田顕治らとともに伊達輝宗勢に内応した。 「貝殻坂、石積坂の戦い」で青田胤治、舟山豊前守、大谷地掃部勢らとともに相馬盛胤の家臣高田内膳勢と戦い敗れて道明寺掃部勢の追撃を受け討取られた。 参考文献:『信長の野望嵐世記武将FILE』byコーエー。 草野晴清【くさのはるきよ(15?? ~1563)】 草野直清家臣。 通称小市郎。 1563年、「草野直清、青田顕治の乱」で相馬盛胤に従い草野直清勢と戦った。 「坪田八幡の戦い」で草野直清勢と戦い討死した。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 草野伴右衛門【くさのともえもん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡小塩庭館主。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 熊田兼氏【くまがいかねうじ(14?? ~15?? )】 結城政朝家臣。 白河郡伊賀館主。 官途は若狭守。 結城義親が伊賀館を領して小峰家を相続すると、木之内館に転封した。 参考文献:「秋田の中世を歩く」by秋田城介。 熊耳太郎左衛門【くまがみたろうざえもん(15?? ~15?? )】 田村隆顕家臣。 田村郡熊耳館主。 693石を領した。 参考文献:「三春昭進堂」byryuichi。 熊川隆光【くまがわたかみつ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡熊川館主。 標葉郡七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 熊隆重【くまたかしげ(15?? ~15?? )】 相馬顕胤家臣。 標葉郡熊館主。 標葉郡四七人衆。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 黒木信房【くろきのぶふさ(15?? ~1543)】 宇多郡黒木城主。 通称弾正忠。 別名黒木正房。 1542年、「田中城の戦い」で伊達晴宗勢に属して伊達稙宗勢の田中城を攻撃したが敗退した。 1543年、「中村城の戦い」で伊達稙宗勢の相馬顕胤勢の攻撃を受け降伏した。 勝善原で相馬顕胤勢に謀殺された。 参考文献:「千葉一族」bychiba-ichizoku。 黒木宗俊【くろきむねとし(15?? ~15?? )】 相馬義胤家臣。 官途は中務。 1580年、堀内宗和とともに相馬盛胤に謀反を起こしたが、失敗して伊達政宗にもとに落延びた。 1590年、「中村城の戦い」で佐藤藤右衛門、国分右衛門尉らとともに亘理重宗に従い相馬隆胤勢と戦った。

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【ニッポン城めぐりクイズの答え】6/2 奥州仕置において、石川昭光は次のうちどのように処遇されたか?

奥州 仕置 において 石川 昭光 は 次 の うち どの よう に 処遇 され たか

我が外高祖父大越文五郎 1832-1916 と曾祖母澤田まつゑ 1856-1926 及び 父澤田亥兵衛 1911-2004 並びに亡き妻澤田信子 1948-1994 にささぐ 「実さい、私たちは何ものであり、私たちの性格とは何であるか。 それは私たちの誕生以来の歴史、それどころか(私たちが出生前の性向をたずさえている以上は)誕生以前からも生きてきた歴史を凝縮したものにほかなるまい。 もちろん、思考にあたっては私たちは自分の過去の小部分しかもちいない。 けれども欲求し、意思し、活動するさいには私たちは自分の全過去を、魂の生まれつきの曲率までも含めてことごとくもちいる。 してみると、私たちの過去はその推すいきおいによって、そして傾向という形で残りなく私たちに姿をあらわすもので、表象になるのはそのかすかな部分に過ぎぬのである。 (中略) 生体の現瞬間の存在原因は直前の瞬間のなかには見いだされない。 直前の瞬間にさらにその有機体の全過去を、遺伝を、要するにその悠久な歴史の総体をつけ加えねばならない。 (中略) 生命とは胚子からおとなの有機体を介してまた胚子へとすすむひとつの流れのように見える。 有機体そのものは旧い胚子が新しい胚子となって生きつづけようと努力しながら突起させる瘤か芽にすぎぬかのような、一切の経過のしかたなのである。 本質的なのは、はてしなくとげられる連続的な進歩である。 この見えぬ進歩の背におのおの馬乗りになって、見える有機体はゆるされたしばしの時を生きる。 (中略) すると、個体の生命原理はどこに始まりどこで終るのか。 ひとはだんだんと後退して、最古の祖先たちに行きつくであろう。 個体がどの祖先とも連帯しており、生命の系統樹の根にあるはずのあのジェリー状の原形質の小塊とも連帯していることがわかるであろう。 個体はこの始祖とある程度ひとつのものである以上、それはまたこの始祖から末広がりに派生してきたあらゆる子孫ともやはり連帯している。 Windows,AndroidなどMac系以外のOS上では、図版の罫線の乱れなどで系図類が正しく再現されない場合があります。 「我が澤田家はもとは磐城(岩城)の国に居り、代々磐城家臣猪狩家に仕えていた。 ところが、主君猪狩氏が『国替え』となり、新たに伊達氏に仕えたため、澤田氏もまた伊達家臣(直臣)猪狩家に仕える家中(伊達陪臣)となり、主家の『主神磐城大明神他二神の氏神三神』を背負って主君につき従い、ここ黒川郡北目大崎村の地に来たった。 以来澤田氏は代々当地猪狩家在郷屋敷に本拠を構え、『猪狩家旦方(ダンポ)』として主家の領地経営にあたり、明治維新に至るまで臣属した。 それゆえ、澤田氏は『大越氏』の外子孫でもある。 」 かくて、我が「澤田家」の祖先は、ひとまず、遠く「磐城の国」すなわち今日の福島県に求められる。 第一節 大和源氏石川氏 大和源氏奥州石川氏 「【澤田氏】姓は清和源氏、〔多田源氏〕源満仲の子〔大和源氏〕源頼親(〔摂津源氏〕頼光の弟)より出ず、立家の祖〔玄孫〕を光義という。 大和源氏頼親からは、つぎの諸姓が発している。 これは、澤田家初代「源太源清重」と同号である。 「公、白河〔福島県〕を割き〔、〕旧郷石川〔大阪府南河内郡〕の称を置く。 自ら称して石川有光と云ふ。 子孫是より石川を姓とす。 」(『修訂版石川氏一千年史』角田市) 大和源氏石川澤田氏 奥州石川氏「有光の三男基光が嫡流となり、その子孫が戦国末期まで約500年間石川の地を領した。 」(『角川日本地名大辞典』) 「澤田サハタ 河内、遠江、駿河、伊豆、美濃、岩代、陸前、陸奥、佐渡、備前等、此の地名多ければ、これ等より起りし此の氏も流派尠すくなからず。 (中略) 10 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店) 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(太田亮・丹羽基二『新編姓氏家系大辞典』秋田書店) 「沢田の名は各地にあり、地名を負った沢田氏は多流である。 磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれで〔、〕石川基光の子光義が沢田を称した。 子孫は戦国期〔十五世紀後半〕福島地方に帰農したもの(中略)など様々である。 」(『姓氏苗字事典』全園社) また一説には、「澤田館は澤田村大字澤井〔石川町沢井字館〕に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城 きず く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) すなわち、澤田氏は、多田源氏満仲の次男・大和源氏大和守頼親朝臣の三男・石川福原三郎頼遠、およびその嫡男石川冠者源太有光を始祖とする奥州石川氏を本姓とし、有光の嫡孫石川冠者澤田太郎(源太)光義(またはその弟源三郎義基)を元祖とする、奥州石川氏の支族である。 第二節 澤田郷・澤田館 河内国志紀郡澤田郷・石川分流澤田川 「さわだ 沢田〈藤井寺市〉 古市国府 ふるいちこう 台地北部の西側の緩斜面で、仲津山陵の北川に位置する。 地名の由来は、当地の田が沢田川(旧石川の分流で大乗川筋に当たる)沿いにあり、豪雨時に冠水することが多かったことによると伝える。 地内南部には仲津姫陵がある。 」(『角川日本地名大辞典』) 本流「石川の分流」「沢田川沿いにあ」った田が豪雨時に冠水することが多かったので、石川氏の遠祖はその地を「沢田」と称したという。 澤田氏が石川氏の分流であることは、まことに、「沢田川」が「石川の分流」であることに象徴的に示されているのである。 「〔中世〕沢田 戦国期から見える地名。 河内国志紀郡のうち。 (中略) 〔近世〕沢田村 江戸期~明治22年の村名。 志紀郡のうち。 (中略)江戸期に地元の判林光平・蒲生君平らが皇陵の調査を実施し、その結果文久3[1863]年から元治元[1864]年にかけて、仲津山陵が陵墓と変わり、立入り禁止となった。 鎮守は沢田八幡神社、小林八幡神社。 沢田八幡神社は江戸初期に、小林八幡神社は江戸中期にともに誉田から勧請され応神天皇を祀る。 (中略) 〔近代〕沢田 明治22[1989]年~昭和48[1973]年の志紀郡の自治体名。 沢田・古屋・林の3か村が合併して成立。 (中略) 〔近代〕沢田 昭和44年~現在の藤井寺市の町名。 1 ~4丁目がある。 (中略)もとは沢田・古室の各一部。 」(『角川日本地名大辞典』) 磐城国石川郡澤田郷・澤田村・澤田館 「沢田 〔福島県〕石川郡石川町南西部の一地区の旧村名。 一説によると一〇五八~一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪)の沢田郷にちなみ、この地を沢田としたという。 」(『福島大百科事典』福島民報社)即ち、澤田氏の苗字は、故地河内国志紀郡澤田郷に由来することが明らかである。 この「城址を沢田といへり。 〔石川風土記〕」(吉田東伍『大日本地名辞書』富山房) また一説には、上述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「沢田村〈石川町〉 〔近代〕明治22[1989]年~昭和30[1955]年の石川郡の村名。 中通り南部、阿武隈川上流沿岸に位置する。 沢井・赤羽・新屋敷の3か村が合併して成立。 大字は旧村名を継承し、3大字を編成。 役場を大字沢井に設置。 (中略)昭和30[1955]年石川町ほか4か村と合併して石川町となる。 各大字は同町の大字として存続。 」(『角川日本地名大辞典』) 「沢井 〒978 〔世帯〕313 〔人口〕1,607 〔石川〕町の南西部。 南は浅川町と西白河郡東村、東は北流する社川を境に大字山形に接する。 農業地域。 社川沿岸と谷あいに水田が、低い丘陵上には畑と山林が広がる。 北部を東西に通る主要地方道白河石川線(御斎所街道)沿いに集落が形成されている。 字上ノ原に沢田小学校・沢田中学校と東京マーメイドニット福島工場、字大池下には沢田郵便局・日蓮宗長福院がある。 石川氏一族の中世山城跡である沢井〔澤田〕館跡には八幡神社・真言宗智山派宝海寺がある。 字東内打 とうないうち にある天台宗安養寺境内下には沢井の清水が湧き、応長2[1312]年銘の線彫阿弥陀三尊板碑がある。 字川井には石川地方生活環境施設組合がある。 地内には字大山平にある白鳥池(大池)のほか大小の灌漑沼池がある。 」(『角川日本地名大辞典』) 第三節 石川澤田氏 澤田氏の元祖石川冠者澤田太郎(源太)光義 奥州石川氏基光の嫡男・二代光義は、「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。 光義もまた、澤田家初代清重と同号の「源太」を称していた。 「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(『新編姓氏家系大辞典』) 「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「【澤田氏】姓は清和源氏、〔多田源氏〕源満仲の子〔大和源氏〕源頼親(〔摂津源氏〕頼光の弟)より出ず、立家の祖〔玄孫〕を光義という。 」(『姓氏明鑑』) 「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれで〔、〕石川基光の子光義が沢田を称した。 」(『姓氏苗字事典』) なお、「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った」(『清和源氏の全家系』)、ともある。 澤田館主源三郎義基 既述のとおり、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) 澤田氏の分岐・石川澤田氏 「同〔奥州石川〕氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、〔石川〕荘内各地に勢力を張る。 早い時期に出現した庶家の名乗った字 あざな を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し(中略)たとある。 (中略) こうして石川一族の中には、〔石川〕庄内の地名を苗字とする〔澤田氏等〕多くの分家が出現してくる。 」(『角田市史』) 石川「一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義/義基〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。 」(『福島県史』福島県) 「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義/義基〕の代に沢田・大寺・小高、曽孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。 有光から三~四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。 」(小林清治・山田舜『福島県の歴史』山川出版社) 「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。 」(『清和源氏の全家系』) 中世社会の進展とともに澤田氏はしだいにその自立の度を強め、やがてはついに石川宗家の支配からも離脱するようになった。 これを、「石川澤田氏」と呼ぶことにしよう。 清和源氏伝統の名乗り もっとも、上記の史料はすべて状況証拠に過ぎない。 私の推論を裏づけるような直接史料はない。 しかし、たとえばつぎの事例は、ひとつの傍証になりえないだろうか? 既述のごとく、石川氏の始祖有光は「柳津源太と号」し、澤田氏の元祖澤田太郎光義自身も「源太ト稱」し、その弟澤田城主義基は「源三郎」と名乗っていた。 時代は下って、石川氏の嫡系・仙台藩一門主座「角田石川氏」二万一千三百石の歴代も清和源氏伝統の名乗りを踏襲し、その支族たる澤田氏もまたそれを継承して、最後まで「澤田九十九源亮長」、「澤田源太郎源宗〓〔重〕」、「澤田源太源清重」と、誇らかに清和源氏の名乗りを上げたのである。 石川一族の多様性と独立的傾向 「阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。 」(『福島県の歴史』) 「文安六年(宝徳元、一四四九)のころ、石川蒲田城(東白河〔石川〕郡古殿町)は白川直朝によって破却され、蒲田氏の所領とその文書(石川蒲田文書)は没収された。 文明六年(一四八四)のころには、石川一族の赤坂・大寺・小高の三家が、氏を改め家紋を改めて白川氏に属した。 」(『福島県史』) 「竹貫 たかぬき 隆光・広光父子」(『いわき市史』)は「石川一族で、竹貫(東白河〔石川〕郡古殿町)を本拠とする。 」(『いわき市史』)。 「天文十[1541]年、竹貫広光・同隆光は岩城重隆の老臣の位置にあったとみられる。 (中略)天文十年から余りさかのぼらないころに、かれらは石川氏を離れて岩城氏に属したのである。 旧石川領(石川庄)の竹貫(古殿町)が、これに伴って岩城領に編入されたことは、いうまでもあるまい。 古殿町および鮫川村の地、すなわち石川庄の東白河郡にかかる地区は、ほとんど白川・岩城両氏の領地と化し、石川一郡を確保することが石川氏の目標となる、という事態が天文十年のころに出現したといえよう。 」(『福島県史』) 「そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。 」(『角田市史』)まさしく、澤田氏の命運を暗示するに十分な一文である。 「仙道〔山道〕の石川同流」(『奥相茶話記』)・四本松(塩松)石川氏は、石川宗家を離れて自立していた。 「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成りし也。 」(『奥相茶話記』) 時の四本松石川氏当主弾正は、田村氏の当主清顕の従兄弟の娘を娶って田村氏に臣属したが、のちに述べるような数奇な運命を経て、ついに戦国の露と消えた。 「『奥相茶話記』は、天文~永禄のころに活躍した田村隆顕が石川六十六郷を手中に収めた、と記している。 天文十三年(一五四四)七月、田村家中の常葉 ときわ 光貞・大越顕光が石川稙光父子と田村隆顕父子との和解につとめることを誓約しているが、これは光貞・顕光が石川氏に属して隆顕を攻めたのち、敗れてこの誓約をするに至ったものとみられる。 両人が稙光に属している事実は、その光の字によっても推定することができる〔明らかな間違い。 「光」は大越氏始祖常光以来の通し字である 〕。 このようにみれば、隆顕が石川六十六郷を掌握したことは、ただちに信憑するわけにはゆかない。 しかし、隆顕が石川領を蚕食したことは、十分に考えることができよう。 」(『福島県史』) 「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。 (中略)石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。 」(『福島県の歴史』) 大越顕光のこと ところで、上に登場した大越顕光は、巻頭に述べたごとく、三百余年後の明治維新の混乱のさなか、運命の数奇ないたずらから澤田家三代金吾(金五郎)の妻となった、私の曾祖母まつゑの実家「仙台大越家」の遠祖・大越紀伊守顕光その人である。 はるかなる戦国時代に、大越氏と石川・澤田氏(のちに述べるように、猪狩氏もまた)はともに磐城の地にあり、すでに浅からぬ因縁にあったのである。 顕光を石川「稙光に属している」とする『福島県史』の説は疑問であるが、いずれにしても石川氏ひいては澤田氏とも親縁な関係にあったことは事実であろう。 大越氏については、のちに章を割いて詳しく述べる。 澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従 こうして、「石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。 」(『角田市史』) 石川澤田氏もまた、おそらく十五・十六世紀の交1500年前後、ついに重代の宗家奥州石川氏の下を離れることになった。 父祖伝来の石川荘澤田郷の故地に別れを告げて、東遷して太平洋の風波洗う楢葉郡に至った澤田氏は、上記の竹貫氏等と同様、岩城氏譜代の重臣猪狩家大和守に臣属して、岩城下総守常隆の陪臣「楢葉澤田氏」となった。 「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである。 」(『福島県史』) 「石川郡沢井」は、いうまでもなく「澤田館」の所在地・澤田氏発祥の地である。 いにしえの「澤田郷」は、いまや佐竹・蘆名・白川等各氏の蹂躪するところとなっていた。 時すでに、澤田氏は楢葉郡へ移住したあとであり、直接この侵略にさらされることはなかったであろう。 しかし、いずれにしても、もはやこの時以後、澤田氏発祥の地「澤田郷」・「澤田館」の地に、澤田一族の姿が見られこることは絶えてなくなったのである。 「元亀二年(一五七一)七~八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。 同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向〔か〕って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。 石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。 (中略)このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西?〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。 天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者 は 在城一ヶ所迄に候。 其外、残り無く手の裏うちに入り候。 』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。 」(『福島県史』) 第二章 石川氏 およそ澤田氏に関する直接史料は、残念ながら、元祖澤田九十九源亮長(1710ごろ-1780ごろ? )、その孫澤田宗家末代源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ~1799)以前は皆無である。 それゆえ、これから「澤田氏の歴た道」を跡づけるには、澤田氏がその歩みの途上において直接・間接にかかわってきた諸氏の記録にたよる他に道はない。 以下では、石川・猪狩・岩城・大越・田村・伊達諸氏の記録を道しるべとして、なんとか「澤田氏の歴た道」を明らかにすべく試みようと思う。 もちろん、これらの史料は澤田氏のことを直接述べたものではない。 しかし、それはまちがいなく、澤田氏の祖先たちがその運命をともにし、ともに歩んだ、「澤田氏の歴た道」でもあるのである。 まずは、澤田氏の本姓「清和源氏石川氏」から始めることにしよう。 第一節 清和源氏 「石川氏は人皇五十六代清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、経基王の長子、源満仲を以って遠祖となす。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 清和天皇 (858~879) 「文徳天皇の第六皇子、母は藤原良房の女皇太后明子。 名は惟仁 これひと。 世に水尾 みのお 天皇とも称す。 嘉祥三[858]年三月誕生、十一月」(『日本歴史大辞典』)「生後わずか9ヵ月で父文徳天皇の皇太子となったが、」(『世界大百科事典』平凡社)「これは文徳天皇が、寵愛する惟喬 これたか 親王(紀名虎の女所生)の立太子を、藤原氏をはばかって断念したためであった。 八五八(天安二)年十一月」(『日本歴史大辞典』)「文徳天皇の急死によって、未成年の9歳で即位する異例を開いた。 この異例の背後には外祖父〔藤原〕良房の巨大な存在があり、良房は太政大臣として幼帝の大政を摂行した。 いわゆる人臣摂政のはじめである。 しかし、文徳朝には長兄惟喬親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり、清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど、政争がくり返された。 清和天皇は病弱で政治をいとい、」(『世界大百科事典』)「八七六(貞観一八)年十一月、在位十九年」(『日本歴史大辞典』)「27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り、畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱列をきわめた。 ついに丹波国の水尾山寺に入ろうとしたが、果たさず」(『世界大百科事典』)、「八七九(元慶三)年五月落飾、法諱を素真という。 翌[880]年十二月、粟田山荘円覚寺で没した。 遺詔により山陵を造らず、遺骨を水尾山上に収めた。 」(『日本歴史大辞典』)「その皇后は《伊勢物語》に〈二条の后〉と呼ばれる藤原高子。 」(『世界大百科事典』) 貞純親王 ( 8?? ~ 916) 「清和天皇の第六皇子貞純親王は、中務大輔兼神祇伯の棟貞王の娘を母として生まれた。 (中略)臣籍に降下せずに親王にあげられたのは、母が王氏の末だったということによるものだろう。 (中略)貞純親王は、生涯に上総大守、常陸大守などの国司を歴任しているが。 現地には赴任しなかった。 いわゆる遙任国司である。 中務卿に任じられたとき、官位相当に従って正四位下に叙せられている。 親王の位階は一品から四品までしかなかったから、昇叙されても最低の位階だったわけである。 官位、位階などのほか、格別な逸話や所伝も残っていないことからみると、きわめて平凡な生涯を送った平凡な人物だったと考えられる。 延喜十六年(九一六)五月七日、四十四歳で薨じたのは、父清和院と同じ円覚寺においてだったという。 (『清和源氏の全家系』) 清和源氏経基王 ( 893~ 961) 清和源氏は、「九六一(応和元)年、清和天皇の皇子貞純親王の子で、六孫王といわれた経基が源姓を与えられたのに始まる。 これについては、かつて星野恒が、源頼信の告文からこの家が実は陽成天皇からでたものであると論じたが、一般には承認されなかったようである。 」(『日本歴史大辞典』)「経基王の妃は源能有卿の女にして、能有卿弓馬の術に長じ王就て学ぶ所多し。 王又和歌を良くし、文質彬々 ひんぴん 博覧多才、幼にして君子の徳あり。 (中略)延喜七[ 907]年十月五日歳十五にして常寧殿に加冠し、正六位上、右馬之介に任ぜられ(中略)る。 後武州の刺史〔国司〕となり」(『修訂版石川氏一千年史』)「平将門と争ったが、このとき彼は『未だ兵道に練れず』といわれた。 経基はその後小野好古に従って」(『日本歴史大辞典』)「天慶四[941]年藤原純友の乱を平げて功あり。 従五位下に叙し、七か国を領す。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「九六一(応和元)年、(中略)源姓を与えられ」(『日本歴史大辞典』)、「やがて太宰府権少弐・鎮守府将軍となったが、彼はなお武士としてよりは皇族出身の一貴族にすぎなかった。 武士の棟梁として清和源氏の名をあげたのは彼の子満仲・満政・満季以後である。 」(『日本歴史大辞典』)同 961年「薨ず。 西八條池の側に葬る。 六宮権現と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 多田源氏満仲 ( 912~ 997) 「経基王の長子にして、延喜十二[ 912]年四月十日西八條殿に生る。 小字鶴丸王と称す。 加冠して従五位下に叙せらる。 父の器を承け、博学聡敏、威徳具 つぶさ に備はる。 〔941年〕純友の乱に父を輔けて之を平げ、功を以て従四位下に叙し、摂津守に任ぜられる。 封を受けて摂津国多田荘〔兵庫県川西市〕に移り、陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、後、致仕して釈門に帰し、新発意 しんぼち と号す。 多田院を建て之に居る。 〔多田源氏〕」(『修訂版石川氏一千年史』)「満仲は摂津守として、同国多田荘〔兵庫県川西市〕に拠り、強力な武士団の棟梁となった。 満仲はその武力を背景に、巧妙な政治的陰謀によって摂関家との結合に成功し、清和源氏興隆の基礎を開いた。 満仲は摂津守の任後も多田に土着し、」(『日本歴史大辞典』)「多田荘を経営して多田院を創立した。 (中略)満仲は当時の有力な〈武勇の士〉とされていたが、彼には頼光・頼親・頼信以下数名の子があり、また弟に満政がいたが、いずれも武勇の名が高かった。 満仲の嫡流をついだのが頼光であり、この系統を摂津源氏といい、やがてその一流の多田源氏がこの武的系統を代表するに至」(『世界大百科事典』)り、「源頼政はこの系統から出」(『日本歴史大辞典』)た。 しかし、「頼光の嫡系はむしろ京都に定着して中流貴族(受領 ずりょう 階層)の道をすすんだ。 なお摂津源氏の系統(頼光流および満政流)から美濃源氏が生まれ、またとくに満政流からは尾張源氏、さらに三河源氏がでている。 満仲の第2子頼親は大和国に本拠を置き大和源氏の祖となり,第3子頼信は河内国石川・古市地方を本拠地として、河内源氏の祖となる。 こうして各地に清和源氏の一族が繁衍 はんえん して、恒武平氏とならび称される有力武家の一族となったが、後世とくに〈武人の家〉として名を成し、また初めて武家の政権を樹立するに至るのは、河内源氏の系統の一族である。 なお源満仲は969年(安和2)の安和の変において藤原氏のために暗躍して左大臣源高明 たかあきら を失脚させたことがあり、以後頼光・頼信らも藤原摂関家に臣従してその爪牙 そうが となり、深い結びつきを続けたことも見逃せない。 」(『世界大百科事典』)「長徳三[ 997]年八月二十七日薨ず。 歳八十六。 天山満慶と謚 おくりな す。 (中略)満仲公十子あり。 長子頼光(中略)世子たり。 次子頼親母は左京大夫藤原致忠朝臣の女、康保三[ 966]年九月十三日生る。 小字普源丸石川氏の祖也。 三子頼信」(『修訂版石川氏一千年史』)。 清和源氏嫡流河内源氏 「かくして源氏は、たとえば頼光が藤原兼家・道長らに盛んに贈物して世人を驚かしたように、最初摂関家と結んでもっぱら家門の繁栄を図った。 しかも、彼らのもつ武士団の棟梁としての性格は、その後関東・奥羽の兵乱鎮定にあたり大いに発揮され、武士階級として大きく成長していった。 」(『日本歴史大辞典』)河内源氏「頼信は1028年(長元1)に始まった平忠常の乱に際し、甲斐守としてその追伐を命ぜられ、ほとんど戦わずに忠常を降伏させ、一躍その武名を関東に高めた。 」(『世界大百科事典』)「この基礎の上に頼信の子頼義は威風は大いに行われ、『拒捍の類皆奴僕の如く』『会坂 おふさか 以東の弓馬の士、大半門客となる』ほどの勢いを示した。 」(『日本歴史大辞典』)「やがて陸奥の安部頼時が51年(永承6)に叛乱を起こし、いわゆる前九年の役が勃発すると、頼義は陸奥守・鎮守府将軍に任じ、その嫡子義家とともに転戦し乱を鎮定した。 ついで義家は83年(永保3)にはじまる後三年の役で再び奥羽の地に活躍し、その武名は〈天下第一武勇の士〉として大いに喧伝されるに至った。 これらの戦役を通じて清和源氏は東国の武士との結びつきを強め、とくに関東地方には源氏と譜代の主従関係を作り上げた在地武士も多く、関東に源氏の地盤がきずかれることとなった。 また義家はその武力を基盤にし、武門の棟梁としての地位をかためるとともに、緊密な摂関家との関係もあり、中央政界、貴族社会の間でも大いにその勢力を伸ばした。 」(『世界大百科事典』)「地方の領主は競って義家に対する土地寄進を行い、〔1090年〕朝廷では寄進を禁止する宣旨を諸国に下したほどであった。 かくして清和源氏の主流は武士の棟梁としての河内源氏の系統に移り、(中略)源氏の勢力は〔1086年〕白河院政開始とともにその政権の武力的基礎となった。 」(『日本歴史大辞典』) 源平争乱 「白河院政初期における義家の名声と勢力はきわめて大きかったが、同時にそれまで武士をその下に臣従させ駆使していた貴族階級から嫌悪されることになった。 院政政権はやがて源氏を異端者としてその発展を抑圧しようと策し、代って平氏を登用するにいたるのである。 」(『日本歴史大辞典』)「上皇が権力を掌握するようになった義家の晩年には、彼の立場も微妙に変化して、その勢力にはかげりが見えはじめ、とくに義家の嫡子義親が叛乱を起こして追討され、また源氏一族の間に内紛が続き、京都政界における源氏の武威は失われ、武門の棟梁の地位は、平正盛以下の伊勢平氏にとってかわられた。 義家の弟に義綱・義光があり、ともに武名をうたわれたが、とくに義綱は兄義家と競い合うほどの武勇の者であった。 しかし義綱の系統は源氏内紛の中で消滅した。 また義光の系統からは常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏(武田氏・安田氏・逸見氏等)が出ており、義家の子義国の系統から上野の新田氏、下野の足利氏が成立した。 」(『世界大百科事典』)「一族の威勢は義家を頂点として急速に傾き、義親の子為義に至って陸奥守を望んで得られず、六三歳の歳まで受領にもならず検非違使にとどまり、わずかに為義の長子義朝が下野守として源家の体面を保っていたにすぎなかった。 」(『日本歴史大辞典』)「1156年(保元1)の保元の乱で源氏一門は崇徳上皇方に立った為義(義親の嫡男)やその子為朝らと、後白河天皇方に加わった義朝(為義の長子)とが敵味方に別れて戦い、義朝は戦勝によってその政治的地位を高めたものの、一門のほとんどを失った。 ついで59年(平治1)の平治の乱で義朝が敗死するに及んで、源氏一門はまったく凋落し、平氏一門の全盛をむかえた。 」(『世界大百科事典』) 鎌倉開府 「源氏にかわって興った平氏は清盛によって六波羅政権を樹立するが、やがてこの政権の動揺に乗じて以仁 もちひと 王を奉じた源頼政が挙兵し、」(『日本歴史大辞典』)「平治の乱後に伊豆国に配流されていた義朝の嫡男頼朝は、80年(治承4)全国的に反平氏の気運の高まるのを見て、伊豆・相模をはじめ関東地方の在地武士たちを糾合して挙兵し、また木曾にあった源義仲をはじめ、甲斐源氏以下の諸国の源氏も反平氏の旗を挙げた。 そして85年(文治1)に平氏を滅ぼした頼朝は相模国鎌倉に武家政権を樹立した。 いわゆる鎌倉幕府の創始である。 史上初の武家政権を成立させた頼朝はやがて征夷大将軍に任ぜられ、ここに武家の棟梁たる〈源家〉の地位を確立した。 この頼朝の創業に功績をあげた彼の弟範頼・義経らはやがて頼朝に討滅されるが、この範頼の子孫は吉見氏となった。 」(『世界大百科事典』) 武家の棟梁 「源氏の将軍は頼朝の死後頼家・実朝に至って正統が絶え、幕府の実権は出自を平氏にもつ執権北条氏に移った」(『日本歴史大辞典』)「が、鎌倉将軍が実現したことにより、それ以後は武家の棟梁としての清和源氏の名は不動のものとなった。 鎌倉幕府の滅亡に際して、北条一門の打倒に功績をあげた足利尊氏(高氏)は、義国の子義康の系統から出たが、やがて建武新政府を否定して室町幕府を開き、再び武家政権を樹立した。 彼はみずから清和源氏の嫡流をつぐものであり、また頼朝の後継者たることを主張して、将軍の地位につき、その地位は代々子孫が継承していった。 また3代義満のときには、それまで村上源氏が世襲していた淳和 じゅんな 院、奨学院の別当の地位をも継承して世襲するに至るが、この時点で清和源氏の嫡流がすべての源氏の代表者たる地位にあるものと意識されたことを示している。 武家の棟梁としての清和源氏の名が固定的なものとして意識されるようになった結果、武力を背景として政治権力を握ろうとする者の中には、みずから清和源氏の流れをくむと主張するものが多くなる。 江戸幕府における徳川氏の場合、今日では必ずしもその信憑性が認められているとは言いがたいが、新田氏の一流である得川氏にその系譜をもつものとされているのである。 」(『世界大百科事典』) 第二節 大和源氏 大和守頼親朝臣 (966~1057) ここで少しく時代をさかのぼるが、清和源氏の嫡流河内源氏「頼信の次兄〔大和源氏〕頼親も、なかなかの人物だったらしい。 」(『清和源氏の全家系』)「公首服〔元服〕の後、従四位下に叙せられ、宮内丞に任ず。 又檢非違使左衛門尉となる。 周防・淡路・信濃・大和の刺史たり。 大和・摂津の諸邑を食む。 〔摂津国〕豊島 てしま 郡十市府 に住す。 」(『清和源氏の全家系』)「時に永承元[1046]年、事を以って興福寺の僧と戦ふ。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「さきに強訴を行ったものの、頼親に阻まれて入京することができなかった興福寺の僧兵たちが、これに怨みを含んで大和守頼親とその次男前加賀守頼房の館を襲撃したのである。 頼親・頼房父子は、もちろん武士である。 当然、弓矢をもって応戦し、数人の僧兵を射殺したのである。 僧兵は退却した。 しかし、興福寺といえば藤原氏の氏寺である。 その僧兵を射殺したというのだから、当然問題になった。 」(『清和源氏の全家系』)「僧徒の訴ふる所となり、勅勘を蒙り、土佐の介と為し土佐に謫 たく せらる。 長子頼成・次子頼房与かる。 頼成佐渡に、頼房淡路に配せらる。 公土佐に在ること七年、勅免を得て京都に帰り、官位を復す。 天喜五[1057]年六月二十八日豊島郡に卒す。 歳八十六、雄徳院殿頼全玄翁大居士と謚す。 大和国法隆寺に葬り、祠を多田院に建つ。 (中略) 公五男二女あり。 長男頼成、(中略)永承元[1046]年父と共に興福寺の事に寄り、佐渡に謫せられて卒す。 子孫あり一家を為す。 次男頼房、母は盛光院。 (中略)父、兄と共に興福寺の事に寄り、淡路国に謫せられて卒す。 子孫別に一家を為す。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「承保三年(一〇七六)、肥前国に移されていた頼房は配所で死んだ。 加賀守だったときの武勇により、荒加賀と称されたのがこの頼房である。 しかし、この系統はなおも大和国に繁衍して、世に大和源氏と称されていくことになる。 」(『清和源氏の全家系』)「三男頼遠、母は盛光院、石川氏の祖也。 四男頼基、(中略)別に一家を為す。 五男頼治、(中略)別に一家を為す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 大和源氏 「延久三[1071]年陸奥乱れる。 源頼俊討て之を平ぐ。 頼遠公の異母兄頼房の子也。 〔頼遠と〕同じく来りて陸奥にあり。 之を以て乱を平ぐ。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼親・頼房父子が興福寺の僧兵とのあつれきで配流の憂き目を見たのだから、この系統には興福寺に対して怨みを含んでも当然の理由がある。 にもかかわらず、頼房の嫡孫〔頼俊の嫡子〕頼風の系統には興福寺に入って僧となったものが圧倒的に多い。 頼風自身はまだ僧ではない。 それどころか、従五位下の陽明門院の判官代でありながら、『天下名誉の武勇』の猛者もさであった。 頼風系で最初に僧になったのは、その嫡男頼安である。 法華経の持者だったので、法華経太郎と号するまでになる。 しかし、元来が武士である。 あまりにも荒っぽかったせいか、『天下名誉の武勇の悪党』と呼ばれている。 僧侶でありながら、頼安は三人の男子の父である。 そして、その頼安の長男信実がまた物凄い。 興福寺に入って法橋の上座にまで成り上がったものの、これも武士が本然の姿だったから、『日本一の悪僧武勇』と怖れられることになる。 この信実の曾孫住蓮こそ、真の仏教徒だったかもしれない。 浄土宗の開祖法然上人に弟子入りして、安楽とともに法然の二代弟子と称されたほどの高僧になったのである。 専修念仏の弘通 ぐつう に努力したので、ついに後鳥羽上皇の小御所の女官二人が出家したのがいけなかった。 たちまち後鳥羽院の逆鱗に触れ、承元元年(一二〇七)二月、近江国馬淵荘(近江八幡市馬淵町)で斬首されたのである。 頼風の弟頼治も、興福寺の僧兵が京都に強訴に入ろうとしているのを阻止して興福寺から訴えられ、嘉保二年(一〇九五)十月、配流の憂き目を見ている。 配流された国は、『尊卑文脈』では土佐国あるいは佐渡国となっているが、『中右記』や『平家物語』で見ると佐渡国が正しいらしい。 その子頼弘は摂津権守に任ぜられて国衙の在庁官人になり、摂津国豊島郡(豊能町)に本拠を移して豊島権守と名乗った。 豊島氏の開祖である。 親弘〔頼弘〕の子の代で、この系統は二流に分かれる。 次男元弘の系統は、頼弘の跡を伝承して豊島源氏と称したのに対し、長男親治の系統は大和国宇野荘(五条市宇野町)に本拠を置いて、宇野源氏を名乗ることになったのである。 頼風〔頼俊〕の三弟頼景は、陸奥国愛子 あやし (仙台市広瀬町)に所領を持って、愛子六郎あるいは陸奥六郎と称した。 しかし、本領は尾張国大野荘(常滑市大野)にあったらしい。 鎌倉時代に入っても最初のうちは、尾張国はまだ近畿文化圏に近かったから、この系統は当初はまだ宮廷武家であり続けたようである。 だから承久三年(一二二一)に後鳥羽上皇が鎌倉討幕の挙兵をしたとき、頼景から三代目の大野判官代頼清、その子太郎頼重父子は京方に味方している。 しかし、承久の乱では、京方は惨敗した。 そのため、大野頼清は鎌倉幕府に尾張大野荘など数カ所を没収されている。 以降、この系統は山中である大和国吉野郡旭(十津川村旭)に屏息して、朝日姓を称することになる。 一見華やかに見える朝日姓は、その実、屏息状況の苗字だったのである。 」(『清和源氏の全家系』) 第三節 奥州石川氏 「中世の石川荘を支配したのは、多田源氏満仲の子孫と称する石川氏である。 」(『角川日本地名大辞典』)。 石川福原三郎頼遠 (1007~1062) 多田源氏満仲の次男・大和源氏頼親の三男・頼遠は、「母堂盛光院、寛弘四[1007]丁未年三月二十八日、大和国宇田郡に於て生る。 小字千勝丸・弥三郎と称す。 (中略)従五位下に叙せられ、伊勢守に任ず。 河内国石川郡〔大阪府南河内郡〕、並に摂津国福原〔神戸市兵庫区福原町〕・小柳津 やないづ 〔兵庫県川辺郡猪名川町〕の諸邑を食み、石川荘に住す。 公独り興福寺の事に与らず。 」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼遠は、早くから福原三郎と号している。 摂津国福原荘を本領としていたからである。 福原荘は現在の神戸市兵庫区福原町。 瀬戸内海に面し、現在の神戸港を風波から守る和田岬をすぐ南側に控えた交通上の要地で」(『清和源氏の全家系』)、のちに平氏が一時都した地である。 「永承六[1051]年陸奥の豪族安部頼良反す。 朝議、源頼義に命じて之を伐たしむ。 〔頼遠〕公、〔従兄弟〕頼義を輔け、永承七[1052]年陸奥に至り、数々 しばしば 賊と戦ひ、具 とも に労苦を尽くし、万死の中に出入して未だ平ぐる能はず。 出羽の酋清原武則の援を得、康平五[1062]年厨川柵を攻め、貞任以下誅に伏す。 公矢石を侵して戦ひ、遂に戦歿す。 長子有光公軍にあり、父公を輔け、乃ち代て軍を統ぶ。 (中略) 頼遠公父子、頼義将軍に随従して陸奥に在ること十一年、櫛風 しっぷう 沐雨具さに艱難を嘗め、激戦数十、万死を冒し功なるに垂 なんなん として頼遠公厨川に戦歿す。 有光公代て軍を指揮し安部一族誅に伏して、陸奥の山河亦王沢に潤ふ。 乃ち乃父 だいふ の功を全うするを得たり。 康平六[1063]年春三月、頼義将軍降虜を率ひ、京師に帰る。 〔有光〕公又随て入朝す。 是より先、人を遣し、貞任以下の首を齎し闕下 けっか に献ず。 詔して頼義将軍を正四位下に叙し、伊予守に任じ、義家出羽守に任ぜられ、(中略)清原武則鎮守府将軍に任じ、有光公従五位下安芸守に任ぜらる。 将軍更に公の功を奏し、奥州山道の地を公に与へ、以て陸奥を監視せんことを請ふ。 朝議之を許す。 此に於て有光公、一族師弟を率ひ、白河の地に来り住す。 時に康平六[1063]年冬十月也。 有光公白河に至り、先年頼義将軍藤田に次 やど し、八幡神を陣中に勧請して戦勝を祈り、遂に賊を平定したるを以て、其地を吉とし、此に居を卜す。 先君の遺骨を葬り以て菩提を弔ひ、一宇の道場を建つ。 先君を法謚 ほうし して岩峯寺殿仁勇健徳と云ひ、寺を岩峯寺と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 岩峯寺は「石川郡玉川村大字岩法寺にあり、山号を大貫山、臨済宗建長寺派の古刹である。 承保年中〔1074~76〕開基の寺伝があるが、本格的な開山は、鎌倉末期の正和五[1316]年と見られている。 付近には石造五輪塔としては古式に属する、治承五[1181]年の紀年銘を有する五輪塔があり、石川氏ゆかりのものとして、国の重要文化財に指定されている。 長泉寺創建以前の石川氏の菩提寺である。 」(『修訂版石川氏一千年史』注) 「頼遠公五〔六〕男一女あり。 長子仲重、(中略)先生 せんじょう 大夫に任ぜられ、京師に止まり別に一家を為す。 次子有光公、母堂正夫人園正院の出なり。 立て世子となる。 三男家弘母堂有光公と同じ。 (中略)上野国に邑を食む。 五男有宣、(中略)紀伊国に邑を食む。 六男有遠、(中略)出羽国に邑を食む。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 河内国石川郡石川荘 「石川〈河南町〉 石河とも書いた。 葛城山西北麓、石川の右岸に位置する。 地内を梅川が貫流する。 地名は川名にちなむか。 〔古代〕石川 奈良期から見える地名。 河内国石川郡のうち。 (中略)現在の河南町の東山・一須賀・大ヶ塚から富田林 とんだばやし 市・河内長野市・千早赤阪村にかけての石川流域の一体と推定される。 〔中世〕石河郷 郷名。 平安期~戦国期に見える郷名。 石川郡のうち。 (中略)石川郡と同じ意味で使われていると思われる。 (中略) 〔中世〕石川荘 平安期~戦国期に見える荘園名。 石川郡のうち。 (中略)当地は河内石川源氏の本拠地である。 (中略) 〔近代〕石川村 明治22[1889]年から昭和31[1956]年の自治体名。 はじめ石川郡。 明治29[1896]年からは南河内郡に所属。 大ヶ塚・山城・東山・一須賀の4か村が合併して成立。 (中略)郡内でも平地に恵まれていた。 (中略)昭和31[1956]年河南町の一部となり、村制時の4大字は同町の大字に継承。 」(『角川日本地名大辞典』) 「石川郡 古代~近代の郡名。 河内国に属す。 『和名抄』の訓は『以之加波』。 大阪府の東南端に位置する。 (中略)郡東部の金剛山地と西部の羽曳野丘陵との間を石川が堆積平野を形成しつつ北流する。 東部山地からは梅川・東条川・佐備川が北西に流れて石川に注ぐ。 郡名の由来は、同川の流れによる。 (中略) 〔古代〕(中略)石川に沿って東高野街道が南北に通じ、郡北部には難波と飛鳥とを結ぶ竹之内街道が横断。 竹之内街道沿いの山あいの地は王陵の谷と呼ばれ、聖徳太子墓・敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・小野妹子墓など、飛鳥期から奈良期にかけての陵墓が数多く存在し、古代文化の中心地のひとつであった。 (中略) 〔中世〕(中略)石川荘は石川源氏の本拠で、在地領主制を展開していた。 八幡太郎義家の子義時がはじめて石川を称し、平安末期に同荘は高倉天皇の後宮七条院に寄進された。 」(『角川日本地名大辞典』) 「石川 大和川の支流。 指定流路延長30. 7Km、流域面積約 220㎡。 金剛山地の西麓を北流する府南部の主流。 和泉山脈東部の岩涌山・三国山・蔵王峠付近を源流域とし、ほぼ北東に流れ、河内長野市の市街地南方で天見川を合わせ、富田林市に入って佐備川・千早川を合して北流し、羽曳野市で梅川・飛鳥川を合わせたのち、藤井寺市・柏原市の境で大和川左岸に合流する。 (中略)羽曳野丘陵と金剛山地に挟まれた石川の中下流域一帯は石川谷と呼ばれ、古代から開けていた。 (中略)大和川との合流点付近は、応神陵をはじめ全国的に有数の大規模古墳の集中する古市古墳群があり、右岸の玉手山丘陵にも多くの古墳がみられる。 石川谷は、大阪東南部の南北交通路をなし、近世には石川を利用して舟運が発達し、大和川を経て大阪と結ぶ剣先船が富田林の喜志まで通っていた。 」(『角川日本地名大辞典』) 石川冠者源太有光 (1037~1086) 「母堂圓〔園〕正院、長暦元[1037]年正月十二日、摂津物津の荘に生る。 小字松千代と称す。 首服の後、河内右馬之允師任と改め、後、源太有光と称す。 物津冠者と号す。 移て柳津 やないづ 〔兵庫県川辺郡猪名川町〕に居る。 柳津冠者と称す。 永承六[1051]年大人に従て奥州に下向す。 時に年十五、国府〔多賀城〕にあり。 天喜四[1056]年十九歳にして安部頼時の軍と戦ひ、難戦苦闘数々、死を決して戦ひ、二十五歳乃父〔頼遠〕厨川に戦死す。 公代て其軍を指揮し、〔安部〕貞任誅に伏す。 功を以て従五位下安芸守に任ず。 奥州仙道の地を賜り来り住す。 公擇ぶ所の藤田に城 きず く。 水に乏しきを以て更に地を捜す。 未だ得ず。 日夜之を思ひ八幡神霊に祈る。 蘆三根を生じたる地に清水の湧出するを夢む。 醒めて之を奇とし、翌日出でて之を求む。 高立に登て眺臨す。 一鶴あり稚松 わかまつ を嘴 くは へて天に舞ひ、松を墜して去る。 訝 いぶか りて行て其処に至れば、地上三蘆あり。 依て試に地を穿 うが てば、清水湛々として湧出す。 公大に喜び此地に築く。 城成る。 本丸竪五十間、横百八十間二の丸之に協 したが ふ。 高さ百二十尺、城麓、川あり。 北より東に流れ、更に西して北に流る。 恰 あたか も 城を繞 めぐ り、要害自然に成る。 形勢雄偉、三蘆 みよし 城と称す。 公、八幡神を尊崇すること益々篤く、頼義将軍建る所の八幡神を城中に移して氏神と為し〔川辺八幡宮〕、公の第九子有佑を以て、外祖父神祁職吉田兼親朝臣の義子と為し、吉田左衛門尉と改めて祭祀に任ぜしむ。 八月十五日を以て祭日と定む。 盖 けだ し将軍勧請の日に当るを以て也。 公三蘆城に入り将士に第宅 ていたく を賜ひ、市賈 しこ 〔町の商人〕に宅地を頒つ。 鋭意治を図り、農民をして地を開拓せしむ。 公、白河を割き旧郷石川の称を置く。 自ら称して石川有光と云ふ。 子孫是より石川を姓とす。 飛鶴稚松を嘴へたる状を画き家紋とす。 瑞夢に因する也。 延久三[1071]年陸奥乱れる。 源頼俊討て之を平ぐ。 〔父〕頼遠公の異母兄頼房の子也。 同じく来りて陸奥にあり。 之を以て乱を平ぐ。 永保二[1075]年頼義将軍卒す。 詔して義家を陸奥守とし、鎮守府将軍を兼しむ。 〔再従兄弟〕義家依て陸奥に来る。 有光公出て之を迎え、国府に送る。 公應徳三[1086]年十月二日、保原城に卒す。 年五十一。 城は藤田の館を称す。 之より先、家を世子元光〔基光〕公に譲り、此に老す。 遂に此地に卒す。 在光院殿諒山舜英大居士と謚す。 岩峯寺先塋 せんえい 〔先祖の墓所〕に葬る。 (中略) 公七男二女あり。 長男光佑〔光頼〕、母は妾(中略)。 石川郡藤田の邑を与へられ一族に列す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「藤田城は当〔石川〕町北西部の中野にあり、有光の長子光祐が居住した。 その後、南須釜(現玉川村)に館を築いて移り、鴫山 しぎやま 藤田城または大寺城とも呼んだ」(『角川日本地名大辞典』)。 「次男光平、母は兄光佑と同じ、(中略)信州諏訪郡に於て邑を食む。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「当〔石川〕町外槇 とまき には有光の次男泉小二郎光平の子息光則が居住したという梁瀬の館跡がある。 城址南麓の矢吹街道下側に巨大な五輪塔の一部分が残っている。 」(『角川日本地名大辞典』) 「三男元〔基〕光公、母堂正夫人蓮正院、立て世子たり。 四男光孚 たね 、母は元光公に同じ、(中略)矢吹に住す。 一族に列す。 (中略) 五男光房、(中略)奈目津の邑を与えられ、奈目津五郎と称す。 一族に列す。 (中略) 六男光度、(中略)赤坂の邑を与え、赤坂六郎と称す。 一族に列す。 七男光助、(中略)信州依田を食む。 (中略) 八男有佑、(中略)外祖父吉田兼親朝臣の義子となり、吉田左衛門尉と称し、石川氏神の神職たり。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 三芦城 三芦城の築かれた八幡山は標高320mほどの高台で、ふもとに北須川が流れている。 南東部は断崖をなし、石段 249段の急斜面を登って本丸に達する。 本丸跡の西側は石都々古和気 いわつづこわけ 神社(高田八幡神社)をまつっている。 」(『角川日本地名大辞典』) 「三芦城跡 石川氏の祖、源有光が平安時代中期に築城したもので、25代昭光が豊臣秀吉に領地を没収されるまで、領主石川氏の居城であった。 三方が急崖で西北を空ぼりで区切った山城である。 本丸跡には石都々古和気神社があり、応永30年 1423 銘の銅製鍔口が納められている。 これは城主の石川持光が寄進したもので、県重要文化財に指定されている。 」(『白河・須賀川』歴史春秋社) 磐城国石川郡石川荘 石川「氏が入部したころの東北地方は、(中略)地方制度の激変が続いていた時代だった。 奈良時代以来の郡や郷が再編されて姿を消し、それに変〔代〕わって新しい郡や荘園が、とくに福島県浜通り地方を中心に、続々と生まれはじめていたのである。 陸奥の石川郡も、『和名抄』(『類聚倭名抄』)には見えておらず、白河郡の石川郷・藤田郷と呼ばれる地域だったらしい。 それが石川氏の入部以後、開拓の進展とともにその名にちなんで石川郡がたてられ、さらにその地域のほぼ全域が、石川庄という荘園に塗りかえられていった。 同庄は久我 こが 家領とされているが、立庄や寄進の経過などについては、全く知られていない。 石川氏がこの地に移住し、開拓を進めるに当たって、まず根拠地としたのは、石川郡玉川村の地域だったと思われる。 それは前記した石川基光供養塔のある岩法寺が、この地にあることからも考えられるところである。 」(『角田市史』) 「石川〈石川町〉 石河とも書く。 中通り中部、阿武隈川の支流北須川・今出川沿岸に位置する。 」(『角川日本地名大辞典』) 「〔福島〕県南部、石川郡の中央よりやや南西部に位置する。 (中略)福島市の南70Kmの地にある。 阿武隈山地にあり、阿武隈川の支流社川が町の西部を貫流して須賀川盆地に流れ込む。 中心市街地は社川の支流北須川と今出川の合流点付近の谷間に形成されている。 (中略)地勢は西部の阿武隈川と社川に包まれた平坦地と社川東部の山間部に分かれる。 標高は平坦地で 280m、山地で 400mくらいである。 当〔石川〕町は国鉄水郡線の沿線にあり、国道 118号・主要地方道いわき石川線(御斎所街道)・同白河石川線の集合点に当たり、当地方の中心地である。 水郡線の開通により輸送が便利となり、製材・木工業も行われている。 また町の北部にある母畑ダムの完成により、水田の基盤整備や畑の造成が進み、農業の近代化が図られている。 一方、母畑・猫啼などの温泉地があり、石川山からは電気石・ざくろ石など珍しい鉱物が産出されている。 」(『角川日本地名大辞典』) 石川澤井三郎元光〔基光〕 (10?? 」(『角川日本地名大辞典』) 「小字喜代丸三郎と号す。 後大炊介基光と改む。 父有光保原城に老するや、公其後を承く。 従四位下に叙せられ治部大夫に任ず。 元光と改む。 公乃父創業の後を継ぎ、民庶を憮し、領土の開発に努め、子弟を分封して家運の進展を計る。 寛治元[1087]年十二月、鎮守府将軍源義家清原武衡を伐つ。 公、兵衆を率ひ、義家将軍を輔け、金沢の柵を攻むること数月、遂に之を陥れ奥羽悉く平ぐ。 (中略) 元光公義家将軍を輔け清家の賊を平ぐるや、命じて羽州田川郡を営せしむ。 後嘉保二[1095]年八月、一族異母兄大寺光佑・弟矢吹光孚・奈目津光房を伴ひて上洛す。 公従四位上大膳大夫に任ぜらる。 光佑従五位下遠江守・光孚従五位下下野守・光房従五位下岩見守を拝す。 公康和元[1099]年九月八日卒す。 文正院殿大方継光大居士と法謚す。 岩峰寺先塋に葬る。 (中略) 公七男三女あり。 (中略) 長男光忠、母は霊光院、小字小源太。 多病にして武家の業を継ぐ能はず。 (中略) 次男光義、母は霊光院、兄光忠の遁世により、立て世子となる。 三男季康、(中略)竹貫邑を与へ、一族に列す。 (中略) 四男政光、母は光義に同じ、(中略)赤羽荘を与えられ一族に列す。 (中略) 七男義基、母は季康に同じ。 小字徳丸、後沢井源三郎と称す。 沢井邑を与へられ、一族に列す。 従五位下左衛門佐に任ぜられる。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 既述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。 」(『姓氏家系大辞典』) あるいは、「一説によると一〇五八~一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川〔の南西・沢井〕に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪〔府藤井寺市〕)の沢田郷にちなみ、この地を沢田としたという。 」(『福島大百科事典』)すなわち、その「城址を沢田といへり。 〔石川風土記〕」(『角川大日本地名辞書』) 石川冠者澤田太郎(源太)光義 (10?? ~1121) 「小字二郎、沢井弥太郎と称す。 兄光忠遁世の為め、父の後を承けて立ち、従五位下左京大夫に任ぜられ、後、従四位下大和守に任ぜられる。 晩年入道して道寛斎と号す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) また、この光義も「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。 「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。 「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】 石川郡澤田より出る。 尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。 」(『新編姓氏家系大辞典』) 「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。 」(『姓氏家系大辞典』) 「【澤田氏】姓は清和源氏、源満仲の子源頼親(頼光の弟)より出ず、立家の祖を光義という。 」(『姓氏明鑑』) 「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分〔頼親流〕で石川基光の子光義が沢田を称した。 」(『姓氏苗字事典』) また、「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った(中略)。 」(『清和源氏の全家系』) すなわち、この石川冠者澤田太郎光義こそ、澤田氏の元祖に他ならないのである。 石川「氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、荘内各地に勢力を張る。 早い時期に出現した庶家の名乗った字を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し、さらにその子光治が成田(岩瀬郡鏡石町)を号したとある。 また基光〔広季?〕の弟、光家の子息たちも、光治が大寺(石川郡玉川村南須釜、東福寺付近とされている)、光輔〔高〕が小高(同玉川村)を称している。 これらの字はいずれも、現在の石川町中心部ではなく、むしろ玉川村を中心にして、その周辺に散在している地名であることがわかる。 このことも、石川氏の最初の基地が、玉川村地区にあったことを物語っている。 (中略) 以後、鎌倉時代、約百五十年にわたり、石川庄各地への開拓が進められた。 (中略) こうして石川一族の中には、庄内の地名を苗字とする多くの分家が出現してくる。 (中略) 石川惣領家は、これらの分家(庶子ともいう)に、開拓で獲得された所領を与えて、石川庄の支配に協力させるとともに、戦争の際などの非常時には、一族をひきいて軍役を提供せしめていたのである。 このような武士の生活の仕組を、惣領制と呼ぶこともある。 」(『角田市史』) 「保安二[1121]年辛丑 しんちゅう の歳、夏四月朔日卒す。 大昌院殿明輝寛大居士と法謚す。 岩峰寺先塋に葬る。 夫人下総守佐竹義業朝臣の女、天治二[1125]年九月十九日卒す。 法成院殿立生明乗大姉と法謚す。 先塋の側に葬る。 公四男四女あり。 (中略) 長男義季公、母は法成院、立て世子となる。 (中略) 次男義全 やす 、母は義季公に同じ。 福田弥二郎と称す。 後、石河三河守兼雅と改む。 三男光治、母は兄義季公と同じ、福田五郎と称す。 成田邑〔岩瀬郡鏡石町成田〕を与へられ、一族に列す。 石川宗家の命により、〔1189年〕文治の役源頼朝卿に従ひ、西討の軍に属して功あり。 後ち美濃国市橋の地を賜り、移りて市橋に住す。 美濃地方石川ヲ称する者概ね其子孫に出ず。 (中略) 四男、母は兄光治と同じ。 小字千松丸。 後泉右近介全重と称す。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 石川三郎義季 (1??? ~1177) 「小字徳松丸、弥三郎と称す。 父〔光義〕の遺跡を継ぐ。 義季と改む。 保元二[1157]年上洛して従四位下大和守に任ぜらる。 」(『修訂版石川氏一千年史』) 「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義〕の代に沢田・大寺・小高、曾孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。 有光から三~四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。 それは岩城氏のばあいとちがって、必ずしも耕地を開発して新しい村をつくりながらすすめられたというよりは、すでにひらけていた村に入部定住し、その開発をさらにはかってゆくという傾向をとったものとみられる。 そして、阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。 」(『福島県の歴史』) 「治承元[1177]年丁酉 ていゆう の歳、秋七月六日卒す。 息心院殿需水天広大居士と法謚す。 岩峰寺に葬る。 公六男一女あり。 長男、(中略)早夭す。 次男基光公、母は量岳院、立て世子たり。 (中略) 三男光堯、母は兄基光公と同じ。 (中略) 四男光信(中略) 六男治曲」(『修訂版石川氏一千年史』) 「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。 」(『清和源氏の全家系』) 第四節 鎌倉時代の石川氏 「石川氏について記している古文書の数は、(中略)かなりの数にのぼる。 しかし、これらの古文書は、ほとんどが室町・戦国時代のもので、それ以前の平安・鎌倉時代のことを記したものはあまりない。 鎌倉時代末期のものが多少ある程度である。 従って鎌倉時代の石川氏の動向については、よくわからないというのが、正直なところである。 」(『角田市史』)」 奥州征伐 「六代元光〔基光〕の四男光家(石川四郎)は、『奥州南方ノ奉行』であったが、治承四[1180]年会津長浜で賊のために殺されたと伝える。 七代広季は寿永二年(一一八三)、一族成田光治に命じて頼朝の軍を助けさせた。 文治五年(一一八九)奥州征伐の途に就いた頼朝は、石川一族大寺光行の先導をうけて、八月三日石川の藤田に入り、父祖頼義の例にならってこの地の河辺八幡宮(玉川村)に戦勝を祈り、三日間の駐軍の後出発した。 征討のことが終わっての帰途、頼朝は再び石川の八幡に参詣し(中略)たという(なお、『吾妻鏡』にはこれらのことはみえない)。 (中略) 本〔福島〕県内の鎌倉時代の武士領主たちの多くが、文治五[1189]年の奥州征伐を機会として本県に所領をもつに至っているのに対して、石川氏のばあいは、古く平安中期に石川地方との関係をもったことになる。 」(『福島県史』) 「石川の人々にいわせると、鎌倉幕府以前の築城は三芦城で、福島県内の武士団の定着では、最も古いと誇りにしている。 」(猪狩正志他『ふくしまの古戦場』歴史春秋社) 「ただし『一千年史』の記載は、平安末期有光の子息たちの代に、石川一族は庄内の村々にほぼ根を張りおえたという印象を与えるが、それはむしろ、鎌倉時代初期有光の孫あるいは曾孫たちの代に、大きく進められたと考えるべきであろう。 (中略) 一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。 」(『福島県史』) 北条氏御内人 「鎌倉中期から石川荘は北条氏の所領となり、石川氏一族は北条氏の被官となった。 」(『角川日本地名大辞典』) 「北條氏が石川荘全体の地頭職を握り、石川一族はその下で村々の地頭代に任じられるようになっていたと考えられている。 (中略)石川氏が北條氏の個人的従者になったのは、〔1221年〕承久の変のころからとも推測されている。 『石川系図』によると、同氏は、北條氏と婚姻関係を結んでおり、その結びつきも並々ならぬ深いものだったと見てよいだろう。 」(『角田市史』) 「八代光貞は執権北条泰時の息女を妻としている。 九代長光〔光長〕は、弘安四年(一二八一)の蒙古襲来に際して京都の守備の任をつとめ、さらに太宰府に至ってその守備に当たった。 」(『福島県史』) 「〔光長の曾孫〕家光・時光の父子〔兄弟?〕は、ともに北条家〔北条経時(泰時孫、時頼兄)〕の女を母とし、北条家で元服を加えている。 」(『福島県の歴史』) 「元享三年(一三二三)北條貞時の十三年忌が、子息の高時によって営まれたが、その際に百八十二人の御家人が、砂金・銭・太刀・馬などを献上している(円覚寺文書)。 その中に、多くの石川一族の名が見えている(中略)。 」(『角田市史』) 「ここに石河氏の北条氏御内人 みうちびと としての従属性を知ると共に、(中略)〔石川氏〕諸流が、嫡流を中心としながらも独立に北条氏と関係を結んでいることに注目しておきたい。 」(『福島県史』) 「石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。 」(『福島県の歴史』) 開拓の行詰まりと所領紛争 「このように開拓を重ねて、着実に力を伸ばした石川一族ではあったが、鎌倉後期になると、社会の変質を反映したかのように、多くの問題が噴き出してきた。 とくに深刻な問題として、開拓の行詰まりという事態があった。 鎌倉時代を通じて、社川ぞいの開墾適地の開拓を進め、目覚ましい成果をあげたのであったが、当時の士〔土〕木技術をもってしては、阿武隈川氾濫原の開墾は不可能だった。 だから、技術的な制約から開拓には一定の限度があり、その線に達して開墾事業が飽和状態になると、そこから先には進めないことになる。 このことは深刻な事態を生み出した。 第一に、この時代の武士社会の、もっとも基本的な仕組である、分割相続が不可能になったことであり、さらに限られた土地の相続をめぐって、一族の間で所領争いが続発するようになったことである。 弘長元年(一二六一)から文永二年(一二六五)にかけて、石川坂路光信と、その甥光行の間で、石川庄川尻郷・蒲田郷(東白河〔石川〕郡郡古殿町鎌田のこと)の領有をめぐって、争いが起こり、北條重時・同時宗の下知状によって、いずれも坂路光行に領知が認められている。 こういう事態の出現は、惣領制という一族の団結の仕組みにもひびを入らせることになるし、また、鎌倉幕府の滅亡の遠い原因にもなったのである。 (中略) 石川氏の困苦は、鎌倉幕府の滅亡という大きな政治的動揺のなかで、さらに増幅されることになった。 北條氏御内人として、幕府首脳と密着した生活を営んできた一族が、この大事件の中で前途を見失って、混乱したことは想像できる。 しかし、そういう中にあって、一族の石川〔時光の嫡男〕義光は、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の鎌倉攻めに参加して、軍忠状に義貞の証判を与えられている。 」(『角田市史』) 第五節 南北朝争乱と石川氏 「石川氏が歴史の表面に踊り出て、華々しい動きを見せるようになるのは、南北朝期以後のことである。 それは一つには、この時期以後、文書資料が沢山残されるようになり、石川一族の行動を明らかにしやすくなったことがあるが、それよりも、この時期が地方豪族にとって、絶好の勢力確立・拡大期だったことをあげなければならない。 」(『角田市史』) 建武の新政 「長い年月にわたる北條氏との関係をたち切ってまで、反幕府の姿勢を示して、その後の勢力維持をはかった石川氏であったが、後醍醐天皇によって展開された新政の中では、石川氏は大変きびしい状況に追いこまれることになった。 それは、北條氏の所領は多くが没収されて、いわゆる元弘没収地となり、幕府討滅の恩賞の原資とされたことであった。 石川庄が元弘没収地となったかどうかは明らかではないが、北條氏所領だった可能性が強いので、かなり大きい影響をうけたものと見られる。 建武元年(一三三四)四月、北畠顕家は石川庄の鷹貫(竹貫)・坂地(坂路)・矢沢(谷沢)三郷を、結城宗広に与えている。 おそらくこれは、石川庄地頭、あるいは石川庄奉行だった石川氏に発せられた命令だったと考えられる。 石川一族の勢力維持のための努力も空しく、鎌倉時代以来開拓につとめてきた、庄内の一所懸命の地を奪われてしまったのである(伊勢文書/陸奥国司下文案)。 (中略)鎌倉時代以来の北條氏領、あるいは北條氏被官(=御内人)という事実が、石川氏の鎌倉攻めの功績を無にするような結果になったと考えるべきであろう。 おそらくこれは、奥州での建武新政の大黒柱である、結城宗広の本領白河庄に石川庄が隣接していたことから生じた悲劇だったのである。 (中略) 石川一族などは、鎌倉末期の一時期とはいえ、反幕府の立場を明らかにして戦っているのだから、当然、石川庄の全面的な支配者として認められてよい人々だったのである。 それが上記のような結果になったのは、石川庄内の郷村の宛行主が白河結城氏と、その家臣だったことによるといえよう。 結城氏の功に報いるため、北條氏御内人だった石川氏を冷遇して、その所領をけずったのである。 しかし、このことが結果的には、石川一族を北朝方に追いやることになった。 」(『角田市史』) 石川一族北党に属す 「建武新政のもとで、本領の一部を奪われる悲劇に泣いた石川一族は、所領回復のための運動を展開する。 そのための絶好の機会が意外に早く到来した。 建武二年(一三三五)七月の中先代の乱である。 北條高時の遺児時行が、信州の諏訪氏に奉ぜられて挙兵し、鎌倉を襲った事件のことである。 これをきっかけに足利尊氏が、後醍醐天皇に公然と反旗をひるがえした。 石川一族の蒲田五郎兼光は、早速、尊氏方に参陣し、その軍功によって石川庄内の本知行を宛行われている(遠藤白川文書)。 また同じく石川義光は、その後も尊氏と行動をともにし、九州や湊川に転戦して、最後は比叡山麓西坂本の合戦で討死している(角田石川文書)。 こうして、中先代の乱以来、石川一族は、北朝方として、まさに東奔西走の活躍をしたことが知られる。 その後も、大阪天王寺の戦や男山城善法寺の戦などで、一族と見られる(中略)名が見える。 おそらく当時の北朝方の総大将石塔義房の指揮のもとに、北畠顕家の第二次征西軍を追って、上方を転戦したものである(秋田藩家蔵文書/岡本文書)。 もちろん、地元の奥州でも(中略)戦を交えている。 内乱期を通じて、一時的には、一族の中で南朝方に投ずる者もあったが、大勢としては、ほぼ北朝勢として行動している。 」(『角田市史』) 白川結城氏の圧迫 「奥州南朝勢の抵抗は、文和二年(一三五二)五月に、最後の拠点宇津峯城が陥落して、ほぼ根絶された。 しかし、その後も争乱は止むことなく続く。 奥州管領畠山氏と吉良氏の争いが火を噴いた岩切合戦や、さらに奥州四管領の間での主導権争いなどである。 その中で、石川一族も、しばしば動員されていることは、いうまでもない。 岩切合戦からその後の広瀬川の合戦を経て、敗れた吉良貞家が、名取郡~伊具館~東海道滝尻宿へと敗走した時に、石川蒲田兼光が、貞家の護衛役として献身したことは、『遠藤白川文書』にも記されている。 (中略) 石川氏はこうして、南北朝時代に、かなりの活躍を見せたが、この時期の後半になると、次第に白川結城氏に圧迫されるようになった。 同氏は、宗広の代までは、南朝方の中心として活躍したが、その子親朝の時代には、北畠親房の度重なる出陣要請にも応ぜず、三迫〔宮城県栗原郡〕の合戦後の康永二年(一三四三)には、北朝方に投降してしまった。 この間建武二年(一三三五)には、白川・高野・岩瀬・安積の四郡、石河・田村の二庄、依上・小野の二保など、八か所の検断に任命されている。 (中略)これによって、白河結城氏は、南奥のいわゆる仙道一帯の指導者の地位を承認されたことになり、その下には石川氏をはじめ、田村・二階堂・伊東・上遠野など、鎌倉時代以来の地方武士たちが服することになった。 この権限は北朝方からも追認されたので、結城氏の地位は他氏を大きく上廻るものとなった。 同氏はこのほかにも、(中略)多くの所領を与えられたが、(中略)その中に石川庄の三郷も入れられていたことは前記した。 こういう背景があったから、結城氏が北朝方に投降した後も、石川氏と結城氏の間では、何回にもわたって、所領の支配をめぐる争いがくりかえされた。 一五世紀半ば、結城直朝のころになると、石川一族の中の有力者だった石川蒲田氏が敗北して、居城を破却された上に、所領と同家に伝来した古文書(石川蒲田文書)を没収されてしまった。 また同じ一族の赤坂・大寺・小高の三氏も、氏を変え、家紋を改めて、結城氏に属したという。 こうして石川氏は南北朝時代以降、白川結城氏の強い束縛のもとにおかれることになったのである。 」(『角田市史』) 第六節 室町時代の石川氏 仙道諸家一揆 「応永十一年(一四〇四)ごろと推定されている『仙道諸家一揆傘連判状』(一揆契状ともいう。 秋田藩家蔵文書/白川文書)という史料は、石川一族の一揆契状で、石川庄松川の源朝光以下一七人の署判を、円形に連ねたものである。 まさに『一揆の時代』と呼ぶにふさわしい状況だった。 いずれも、篠川・稲村両御所の付近の、しかも中小武士によって結成されていて、伊達・白河結城・芦名などが加わっていないことなどから、そのように考えられている。 (中略) 石川氏をはじめ、田村・伊東などの諸氏は、一族の分離独立の傾向が早くから進んでいて、そういう中で一族の団結を図る必要があったので、一揆結成は渡りに船と受けとめられた(中略)。 」(『角田市史』) 白川結城氏の覇権 「両公方の着任は、このように、南奥羽の国人の間に大きな影響を及ぼしたが、波紋はそれだけに止まらなかった。 (中略)〔1396年〕伊達〔大膳大夫〕政宗の乱と、それに続く、芦名・斯波・大崎氏をもまきこんだ、南奥の政治的混乱をも、この事件はひき起こすのである。 さらに両公方自身もまた、この時期の全国的な政治状況の中で、複雑な動きをはじめることになる。 篠川満直は応永二十三年(一四一六)以後、反鎌倉の立場を明らかにし、稲村満貞と対立する。 満直は室町将軍と結んで、鎌倉公方になろうとし、永享の乱に際しては、室町幕府から、鎌倉公方足利持氏追討の奥州総大将に任じられて、甥持氏を敗死させるのに力を貸した。 この時、弟の満貞も持氏とともに鎌倉永安寺で自刃している。 残った満直も、しかし長く生き残ることはできなかった。 永享の乱の翌年、永享十二年(一四四〇)には、石川持光をはじめ、畠山・石橋氏などの奥州武士に攻撃されて、殺されてしまった。 (中略) この結果、両公方庇護者方という〔大義名分〕を失った石川氏は、有力国人白川氏の勢力とまともに対抗せざるを得ない状況に追いこまれることになった。 その結果が、前記したように、石川蒲田氏の没落や、赤坂氏以下の服従となって、石川氏の頽勢をますます深刻なものにすることとなった。 十五世紀半ばに登場した白川直朝は、卓抜した政治手腕によって、北関東の宇都宮・那須・佐竹などの諸氏に影響力を及ぼし、伊達氏を除く福島県内の武士のほとんどが、白川氏の配下に入った、といわれるほどの大勢力を築き上げた。 北関東から南奥にまたがる有力国人に成長したのである。 それは、一族内での分裂・抗争が深刻になったこと、とくに有力な庶家である小峯氏と白川氏の間に内紛があって、一瞬にして家運が傾いてしまった。 周辺の諸氏は、これに乗じて、同氏の所領を蚕食しはじめる。 会津を本拠とする芦名氏は、会津守護を自称するほどに、この地方に勢力を張った。 〔1540年〕伊達氏天文の乱に乗じて、仙道地方にも進出し、安積・岩瀬郡方面を支配するに至った。 須賀川の二階堂氏、二本松の畠山氏や白川氏らがその影響下におかれることになったのである。 石川氏も、その領域の西端の地区で、芦名氏と接触することになった。 」(『角田市史』) 岩城氏の侵攻 「浜通り地方、東海道の岩城氏も勢力を拡げていた。 室町時代初期の応永十七年(一四一〇)二月には、前記した仙道一揆とは別の、相馬・標葉 しねは ・楢葉などの海道の有力豪族による五郡一揆が結成された。 岩城氏はその盟主ともいえる立場で参加している。 石川郡にも勢力をのばしたことは確実で、天文十年(一五四一)六月には、竹貫広光・同隆光の二人が連名で、岩城重隆と白川氏が疎遠になるような時には、白川氏のために働く、という意味の起請文(遠藤白川文書)を白川氏に出している。 」(『角田市史』) 既述のごとく、「竹貫隆光・広光父子」は「石川一族で、竹貫(東白河〔石川〕郡古殿町)を本拠とする。 竹貫氏は、この天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころに石川氏を離れて岩城氏の麾下になったものと思われ、竹貫の地は岩城領となっていた」(『いわき市史』)のであった。 「『福島県史』は、この史料から、竹貫氏が岩城重隆の重臣だったのではないかと推定している。 竹貫という字、広光・隆光という諱からみても、これは石川一族だった竹貫氏と考えなければならない。 そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。 」(『角田市史』 佐竹氏の脅威 「このように、白川氏の衰退とともに、石川庄の周辺には、有力豪族の諸家が相ついで進出し、石川氏はその圧力の前にさらされる状況となった。 これらのほかにも南方の常陸からは、佐竹氏が進出しはじめ、永禄三年(一五六〇)には、石川庄の南方の、高野郡南郷を占拠して石川氏の領域と境を接することになった。 佐竹氏はこの後、白川氏の内紛に乗じて、白川領を完全に掌中に収め、芦名氏の勢力と対峙するようになった。 石川氏は、この二大勢力にはさまれて、揺れ動くことになる。 」(『角田市史』) 田村氏の侵略 「脅威はそれだけではなかった。 戦国時代の段階で、石川氏にとって、もっとも警戒しなければならなかったのは、田村氏の動向であった。 天文十三年(一五四四)七月には、田村家臣の常葉光貞と大越顕光が連署して、石川稙光父子と田村隆顕父子の和解に努力することを誓った起請文を書いている(角田石川文書)。 『福島県史』は、常葉・大越の両者はもと、石川稙光に属しており、田村隆顕と合戦した後、敗れてこの起請をしたのだとしている。 さらにその後の永禄八年(一五六五)にも、田村隆顕は、石川晴光を攻め、撃退されている。 前記した大越顕光は、諱からしても、石川一族だった可能性が強い。 」(『角田市史』) 大越顕光が石川一族だったという上記の所説は、のちに述べるように、明らかまちがいであるが、もちろんこの顕光は、明治時代に澤田氏に嫁いだまつゑの祖先である。 大越氏と石川・澤田一族は、すでに当時から、浅からぬ因縁にあったのである。 また、既述のごとく、「仙道〔山道〕の石川同流」である「四本松石川氏」は、石川宗家を離れて自立していたが、「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成」(『奥相茶話記』)った。 「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。 」(『角田市史』) 澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従 「このように、戦国時代になると、石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。 そういう中で、保身の道を模索する必要に迫られたのである。 中小大名である石川氏にとって、周囲の諸勢力の政治的状況を敏感に見抜いて、その流れに逆らわないで、多方面外交を展開していく以外になかった。 」(『角田市史』) ご多聞に洩れず、澤田氏もまた、ついに石川荘澤田郷の故地を去り、東遷して楢葉郡に至って猪狩氏に仕え、かくては岩城氏の陪臣となった。 その時期を判断する史料はない。 しかし、石川氏をめぐる上述の諸情勢を按ずるに、白河結城氏の最盛期すなわち「文明年間(十五世紀七十~八十年代)の直朝・政朝父子の時代」が終わった15世紀後半から、竹貫氏が「石川氏を離れて岩城氏の麾下になった」「天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころ」、16世紀前半にかけての動乱の時期の間、すなわち15・16世紀の交1500年前後、後述する岩城下総守常隆/猪狩忠満・大和守の代ごろに、その時期を比定することができよう。 13世紀に発生した「源姓石川澤田氏」は、宗家「清和源氏石川氏」とともに動乱の3世紀をくぐり抜けてきた。 しかし、いまやまさに、その重代の宗家と袂をわかち、父祖伝来の「澤田」の故地をも後にして、新天地をめざして東方へと旅立ったのである。 第八節 それからの石川氏/角田石川氏 石川之儀者在城一ヶ所迄に候 「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである。 」(『福島県史』)既述のごとく、「沢井」は澤田館の所在地、澤田氏ゆかりの地である。 「元亀二年(一五七一)七~八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。 同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。 石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。 (中略) このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。 天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者は 在城一ヶ所迄に候。 其外、残り無く手の裏うちに入り候。 』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。 」(『福島県史』) 石川昭光・反伊達南奥連合 「こういう中で、石川晴光は、伊達晴宗の息、昭光を入嗣させた。 『石川一千年史』によれば、永禄六年(一五六三)のことである。 これは、伊達氏の威光を背景にして、佐竹・芦名などの強豪に対抗しようとしたものだったろう。 天正年間〔1573~91〕に入ると、石川庄の南部は佐竹氏、北部・西部は田村氏・芦名氏に占領される状況となる。 こうした関係を通じて、芦名・佐竹・白川・二階堂ら諸氏の結合が強まり、南奥の連合勢力の形成が進められる。 この連合に対立したのが、伊達・田村氏である。 石川昭光自身は伊達氏の血を引きながら、夫人が佐竹氏の女(『一千年史』は晴光女子)であったこともあり、反伊達連合への従属を深める以外に途がない状況に追いこまれていったのである。 中小大名石川氏の悲劇というほかはない。 」(『角田市史』) 伊達陣営への帰属 「天正十二年(一五八四)十月、伊達政宗が十八才で伊達氏の主となると、南奥の戦機は急速に昂まり、戦国時代の大詰めへ、事態は急速に動き出した。 (中略)その中で、石川氏は、ほぼ一貫して、反伊達陣営に属して戦っている。 」(『角田市史』) 「石川氏が伊達陣営に接近をはじめるのは、天正十六[1588]年春のことで、『伊達治家記録』によると、閏五月のころから、合戦についての情報が、石川氏から提供されるようになった。 そして郡山城攻防戦の結果、石川昭光と岩城常隆の和睦斡旋によって、講和が成立している。 これ以後、しばしば石川氏よりの使者の来訪が記されているから、次第に関係が深まったのであろう。 しかし、正式に石川昭光が伊達陣営への帰属を決定するのは、翌天正十七[1589]年十一月のことで、政宗と昭光の間で誓詞を交換して、石川氏の服属が決まった。 この後、昭光は須賀川の地を与えられている。 また、佐竹氏に服属していた浅川氏も、同年の暮、政宗に降伏し、翌十八[1590]年正月には、石川氏との和解が成って、以前のように石川氏の家臣に復帰することになった。 」(『角田市史』 石川氏の没落 「そういう中で、天正十八年(一五九〇)三月、豊臣秀吉による小田原攻めがはじまり、奥羽の諸大名に対しても、小田原への参陣が命令されるに至った、伊達政宗はここで参陣を決断し、近世大名として生き残ることができた。 石川氏はそうしなかったために、領地を没収され、石川荘は蒲生氏郷に与えられた。 『治家記録』には、昭光も小田原に参陣して、遅参を謝罪しようとしたが、政宗にその必要はないと慰留されたので、政宗に太刀や馬を託して謝罪の取りなしを依頼したという。 その甘い目論見は失敗して、所領を失ってしまったのである。 これについては、いろいろな見方ができようが、要は石川氏自身も伊達陣営に帰属して以来、独立大名としての自立性を失ってしまい、機敏に対応すべき時に、その決断をすることができない状態になっていたということにある。 こうして石川氏の中世史は終りを告げた。 」(『角田市史』) 仙台藩一門首席角田石川氏 その後、「昭光は政宗の家臣となり、その子孫は伊達一門の首席〔角田石川氏二万千三百余石〕に列した(県史・石川町史)。 」(『角川日本地名大辞典』) 「〔天正〕十九[1591]年政宗公志田郡松山館及采地六百貫文〔6000石〕ヲ授ク。 慶長三[1598]年伊具郡角田館ニ移ル時、采地二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。 是ヨリ先文禄年中、二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。 通ジテ千貫文〔1万石〕ヲ領ス。 八[1603]年家ヲ嫡嗣遠江義宗ニ授ケテ隠居ス。 柴田郡村田館及び采地三貫文〔30石〕ヲ賜ヒ、隠居ノ食邑ト爲ス。 十五[1610]年十一月晦、義宗歿シ、其嫡嗣宗敬家ヲ継グ。 宗敬幼ナルヲ以テ昭光還リテ角田ニ住シ、再ビ家事ヲ治ム。 元和元[1615]年五月六日、政宗公ニ從ヒテ、大阪〔冬の陣〕道明寺口ニ戦ヒ、首五級ヲ獲。 八[1621]年七月十日卒。 年七十三。 法名、廣岩明額。 角田長泉寺ニ葬ル。 」(「伊達家系譜」『仙台人名大辞書』) のちに、既述のごとく、「角田石川氏」七代村満は「源太郎」と号し、十二代宗光は「右源太」、十三代駿河は「左源太」と号した(『仙台人名大辞書』)。 「その後代々角田要害主として幕末には二万千三百余石を領した。 」(『宮城縣史』.

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