いんぐりもんぐり 意味。 いんぐりもんぐりとは

いんぐりもんぐりとは

いんぐりもんぐり 意味

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いんぐりもんぐり: 時の止まったジャングル

いんぐりもんぐり 意味

フルで二週間、職場から離れる機会がないのは身体的にも精神的にも堪える・・・よね。 はじめは、そんな疲れるためだけに行くような研修は不参加として、土日は家でのんびりと体を休める方が良いだろうと思っていたのだが、色々と考えた末に路線変更し、研修に参加することにした。 どうして、研修への参加を決めたのかって? ソレは、私が土日が潰される研修にも律儀にクソ真面目に出席する社畜だから? そんなわけはないだろう。 研修の宿泊地は琵琶湖で、朝に少しだけ早起きすれば、関東からの日帰り旅は厳しい関西エリアの観光地にだって足を伸ばすことができる。 更に、研修の拘束時間は日曜日の朝まで。 日曜日は紅葉真っ盛りの京都や大阪で遊んだり、ちょっと足を伸ばして奈良にだって行くことができる。 そう・・・ 会社が京都までの往復新幹線代を負担してくれる今回の研修は、ある意味、私にとっては美味しい存在だったのだ。 (写真:懇親会時の夕食。 見た目は豪華だが、京料理らしさは感じられない残念タイプ)• 更にHPに割引クーポンQRコードがあり、スマホを見せれば1台つき200円割引で利用できる。 〔自転車レンタル料金〕 普通車:平日900円、土日祭日1000円 電動自転車:1500円(月~日 同料金) 最初は普通車を借りるつもりでいたのだが、レンタル屋のおじさんのお勧めは電動自転車。 明日香村は登り坂も多いので、絶対に電動がお勧めと力説された。 で、実際に自転車観光をした私たちの意見も、電動で良かった!というモノ。 特にキトラ古墳へと足を伸ばす場合にはひたすら坂道をぐいぐい登る道なので、電動自転車が必須だった。 (写真は旅友撮影)• 最初の目的地であるキトラ古墳へは、飛鳥駅から自転車で10分。 ひたすら登り道を漕いで行く。 (これは電動自転車でないと、かなりツライ!) キトラ古墳は1983年(昭和58年)にその内部に色鮮やかな壁画が発掘された古墳で、発掘された当初は高松塚に続く飛鳥時代の王族の古墳か!と大きな話題となった。 キトラ古墳が見つかった当時は、高松塚古墳の二の舞にならぬ様、できるだけヒトが石室内に立ち入らぬように調査を行ったそうだが、それでも、いったん外気に触れて湿度と様々な細菌が侵入してしまった古墳石室内の壁画劣化は予測以上のスピードで進み、その石室壁画の切り出し・保存作業には、私たち一般人の想像を絶する苦労があったと言われている。 そして、現在のキトラ古墳は、石室に埋葬された方の永久の眠りを妨げぬよう、飛鳥時代と同じ方法で封印され、小さな丘として存在している。 キトラ古墳が作られた飛鳥時代、五行思想と呼ばれる自然哲学の考え方が中国で流行しており、キトラ古墳も当時の流行に乗り遅れることなく、その五行思想を石室内壁画に取り入れている。 五行思想では東西南北の各方位には色があり、その色を纏った聖獣神の四神が守護しているとされていた。 北壁に描かれた玄武も聖獣神の一つで、玄武が守るのは北方向だ。 写真では玄武のサイズ感はわかりにくいと思うが、その大きさは小さく、女性の掌の中に玄武がすっぽりと入ってしまうほどに小さい。 この玄武の姿は、蛇と亀が不老長寿の仙薬を奪い合い睨みあっている姿を表現していると言われ、すぐお隣の高松塚古墳や正倉院の宝物の一つである十二支八卦鏡などにも、そのデザインを見ることができる。 (写真:屋外に設置してある乾拓板。 紙を置き、鉛筆でこすると四神の姿が浮かび上がる。 キトラ古墳へと行くときには、大きめの紙と芯の軟らかい鉛筆を忘れずに!)• イチオシ 石室の北面を守護する亀と、西面を守護する虎。 実はこの2匹の動物の絵が、キトラ古墳のキトラという名前の由来となったとする説がある。 キトラ古墳の存在は、江戸時代よりもずっと昔にキトラ古墳が盗掘され、その石室壁に穴が空けられた当初から、このあたりの畑を耕す村人達には、当たり前の存在だったらしい。 農民達は小高い丘の中腹にある不思議な石の小部屋の存在と、石の小部屋の中には亀と虎が描かれているのを知っていた。 だから、その昔の農民達はキトラ古墳のあるエリアを亀虎(キトラ)と呼んでいた。 長い年月が経過し、農民達の口承の中で亀と虎の漢字は失われ、キトラという音だけが残り、現代へと伝わったのがキトラという地名だそうだ。 亀・虎・龍・鳳凰の四神の姿は非常に有名なので知っている方も多いと思うのだが、キトラ古墳で四神以上に価値があるのが、石室天井に描かれた日月像(にちがつぞう)と呼ばれる天文図。 この天文図も五行思想と同様に中国から輸入されてきた天帝思想の一部なのだが、本家本元の中国ではこの時代の天文図はひとつも残されておらず、世界中で現存するのはキトラ古墳のこの壁画だけだ。 天文図では朱色で内軌・天の赤道・外軌が同心円状に描かれ、黄道が中心を北西にずらした形で描かれている。 描かれている天文図は、現在を生きる私たちに一般的なギリシア神話に由来する星座の形とは異ってはいるが、北斗七星や天狼星(シリウス)、オリオン座の三つ星などは同じ配置に描かれていて、その観測精度は非常に高い。 (写真:資料館でわかりやすく拡大展示となった天文図)• この1枚の写真は、天文図に関する蛇足の話。 キトラ古墳の天文図の星の配置、夏と冬の南北の星の位置からこの天文図の図案が最初に作られた年代と場所を計算すると、紀元前650年の中国の北緯34度付近(中国の長安)で作られたと計算される。 紀元前650年といえば日本はまだ縄文時代から弥生時代への過渡期で、竪穴式住居で生活していた時代。 その頃の中国には正確な星空の測量技術があったとは驚きで、二国間のその文化の差は甚だしい・・・。 と書くと、中国の人々に大喜びされそうだが、最近の研究の結果、紀元前650年の長安での計測結果に基づく天文図とは言い切れない。 その理由となるのが、キトラ古墳石室の天井形状であるドーム天井。 キトラ古墳の石室天井はドーム型のため、天文図のその全体バランスは壁画画家の感性でデフォルメされ、見栄え重視で描かれた可能性もある。 また、一部の研究家により、星位置の間違いも指摘されていて、この天文図の星暦から観測年代を導くのは間違っているという意見もある。 とはいうものの、間違えている星の位置を修正して図案のデザイン時期を再計算したとしても紀元前400年位となるらしいので、やはり当時の中国の長安での文化は素晴らしく発展していたといえるのだろう。 キトラのお話はまだまだ話し足りないが、もっと詳しく知りたい方は是非、現地へ足を運んでみて欲しい。 現地ボランティアの方に話をうかがえば、激レアでディープな物語を聞けるかもしれない。 キトラ古墳の最後の話は、キトラ古墳が誰の為に作られた墓なのか。 キトラ古墳が発見された時、その古墳の内部は荒らされ、杉材で作られた棺も、その中で眠っていた故人の骨もすべてが盗掘者により粉々に粉砕された状態で、石室の内部か見つかったのは成人男子の骨片と木屑だけだった。 それだけの条件から埋葬された人物を特定するのは難しいのだが、それでもかなり人物は絞り込まれてきている。 埋葬された候補者は3人 候補者1:天皇家のサラブレッド、天武天皇(大海人皇子)の息子で、斉明天皇の孫の高市皇子 候補者2:朝鮮・百済の正当な王位継承者である百済王昌成 候補者3:竹取物語にも登場する時の右大臣である安倍御主人(あべのみうし) ここからは、私の勝手で、うっすら浅い根拠に基づいた消去法で被葬者を推測してみる。 まず最初に候補者から消えるのは、候補者2の百済王昌成。 当時、百済人は全体に大柄な人物が多く、奥行きが2. 4mしかないキトラ石室内に置く杉の木棺には大柄な百済人の体は収まりきれなかっただろう(膝を曲げれば入るだろうけど)。 そして、次に消えるのが候補者3:右大臣であった安倍御主人。 安倍御主人は竹取物語(かぐや姫物語)の登場人物のモデルとなった実在の人で、物語の中ではかぐや姫に火鼠の皮衣を要求されたのだが、自分では探しに行かず、財力にものを言わせ大陸まで部下を買い付けに行かせ、結局、偽物をつかまされた人物だ。 本人の人物像が竹取物語そのものだとは思わないが、虚栄心が強く、自分では動かない人物だったのだろうと想像できる。 そういうヒトは、もっと大きな古墳を要求するだろう。 最後に残ったのが、候補者1の高市皇子。 彼は天武天皇の息子でありながらも、その王位継承権の順位は低く、天皇となれなかった人物だ。 天皇家の血を引くという意味では、最も候補者として上位ではないかと思うが、私の頭の中には、もう一人、別の妄想被葬・候補者がいる。 私の妄想候補者は、弓削皇子(ゆげのみこ)。 弓削皇子は天武天皇の息子で、学者肌の人物だったといわれ、万葉集にも八首が収録されている。 政治には積極的には首は突っ込まなかった弓削皇子だが、たった1回、とある会議で余計な一言を発言してしまい、その3年後に死去(他殺か自殺か自然死かは不明)している。 もし、彼の26歳での死が暗殺であった場合、弓削皇子の恨みの念は強くこの世に残ったことだろう。 キトラ古墳では、その棺も被葬者もバラバラの骨片になって発見されている。 もしも、もしも・・・ もしも、棺桶と埋葬されている人物を粉々に破壊したのが後世の盗掘者ではなく、彼の暗殺を命じた人物で、不意打ちにより殺された弓削皇子の怨霊による祟りを恐れ、皇子が怨霊として復活することがないように始めから全てを粉砕して墓を閉じたとしたならば・・・ キトラ古墳に埋葬されたのが弓削皇子ということもあり得るのではないのかな。 キトラ古墳や高松塚古墳から出土した遺体の一部をDNA鑑定したのかどうかは知らないが、多分、現在の技術力を考えれば、もう既に鑑定済みで更に詳しい埋葬候補者像が確定しかけているのではないかと思う。 しかし、それらが世間に公表されないのは、どうしてなのか? 日本の神々の血を継承するとされる一族に関する公表すべきではない何かが明らかになってしまうから・・・などと推測するのは裏読みのしすぎかな。 キトラ古墳で1時間近くを遊んだ私たちが次に向かったのは、高松塚古墳。 高松塚古墳とキトラ古墳の距離は直線距離で1kmほどだが、自転車の場合は小山を回り込むので、移動時間は10分弱。 高松塚古墳もキトラ古墳と同じ飛鳥時代の古墳だが、時代が20~30年ほど異なっていて、先に作られたのがキトラ古墳で、高松塚古墳は後の時代に作られた。 両古墳とも正確な年代までは明らかになってはいないが、高松塚古墳が藤原京時代の694年~710年、石室壁画に唐の文化の影響を受けていないキトラ古墳は遣唐使が帰京する前の704年以前に作られたのではないかと推測できる。 キトラ古墳と高松塚古墳の違いは、奥行きの深さで、キトラ古墳の石室の寸法は幅x奥行きx高さで1mx2. 4mx1. 2m、高松塚古墳では1mx2. 7mx1. 1mと採寸されていて高松塚では奥行きが少し深い(つまり、キトラよりも20cmくらい身長の高いヒトが埋葬されていた可能性を示す)。 キトラ古墳とは異なり、高松塚古墳では骨格の分かる人骨も見つかっていて、鑑定の結果、40歳~60歳の当時としてはかなり大柄な男性だと判明している。 オルメカ文明は紀元前1200年頃始まり、紀元前200年頃に忽然と姿を消した文明で、文字を持たなかったオルメカ文明の詳細はメキシコでもほとんど解明されておらず、謎に包まれたまま。 Abuelita石像の製造理由も、その年代も大雑把に紀元前1000年頃としか分かっていない。 一方の日本の猿石は時代的には欽明天皇前後(6世紀:500年頃)だろうと推測されているので、メキシコと日本の2種類の石像の間には1500年ほどの時間の隔たりがある。 しかし、二つの石像の顔の作りには共通点が多い。 厚く腫れぼったい唇、団子状の鼻、そして頭に被る帽子の飾りなど・・・。 ヒトを模した石像なのだから、パーツが似ているのは当然だという意見は十分に承知しているが、地球の正反対にある年代の異なる二つの文化:オルメカ文明と飛鳥文化の共通点。 どこかにこの二つのエリアをつなぐミッシング・リングがないものかと、思ってしまう。 (写真:メキシコ、オルメカ遺跡のAbuelitaを正面から)• イチオシ 大きな墓であるのは時の豪族の長の墓なので納得なのだが、どうして馬子の墓はその石室が土で覆われていないのか。 キトラや高松塚古墳の石室は山の土の中から発見されているのに、何故に馬子の石室は土が無くなり、石がむき出しの状態となっていたのか。 その理由には諸説あるようだが、私は皇極天皇の息子の中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の仕業だとする説を支持したい。 乙巳の変での首謀暗殺者が、中大兄皇子と中臣鎌足で、彼らは政治に深く食い込んだ蘇我一族を厭い、蘇我入鹿を殺した後も蘇我の一族郎党を殺し続け、死体を切り刻み、塩漬けにしたと言われている。 そんなことをするお二人なのだから、馬子の墓を暴き、土を取り除き、埋葬遺体を引きずり出すことだって躊躇無く行っただろう。 江戸時代に畑を開墾するために馬子の墳墓の土を使ったとする説もあるが、昔から墓だと言われている場所の土を畑に転用するお百姓さんは、いたのだろうか。 普通に考えるならば墓地の土を畑に使うだなんて、縁起が悪いと思うに違いない。 参考情報:石舞台古墳の入場料:大人300円で、2020年度版のガイドブックの記載よりも値上がりしていた。 蘇我一族は頭の切れる一族で、天皇の信頼も厚く、歴代の天皇のブレインとしても働いてきた一族だと称されている。 馬子、蝦夷の代までは彼らは天皇の手足となり働いていたのだが、入鹿の代へと変わるとその風向きが少し変わってきた。 世間には蘇我に反発する空気が漂い始め、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を次期天皇に推す声が強まってきたのだ。 もし、この空気感が流れ出した頃、蘇我の一族を牛耳っていたのが蝦夷だったら事を丸く収めたのだろうが、大臣職はすでに息子の入鹿へと変わっていた。 頭は良かったが、未だ若く経験も未熟だった入鹿は、山背大兄王が謀反を起こすように仕向け、謀反に失敗した彼を自殺へと追いやった。 こうなってくると、世間は自殺した山背大兄王の味方となり、蘇我入鹿は、暗殺者である中大兄皇子と中臣の鎌足の手によって斬り殺されてしまった。 今から1400年前、この場所:飛鳥板蓋宮で起きたクーデターである乙巳の変。 乙巳の変により政治の流れは大きく天皇サイドへと移り、中大兄皇子と中臣鎌足がその実権を握り、中大兄皇子の母の斉明天皇(皇極天皇と同一人物)と共に律令国家の礎を築いた。 蘇我入鹿が殺された乙巳の変は大化の改新の始まりの出来事とも言われ、小学校の社会科の教科書でも大化の改新は645年(ムシゴハン)として語呂合わせで覚えさせられるので、ムシゴハンの単語は覚えている方も多いと思う。 飛鳥板蓋宮の皇極天皇の御前で、天皇の息子(中大兄皇子)に切りつけられた入鹿。 入鹿は天皇の膝元までにじり寄り、何故自分がこのような場所で殺されなければならないのか。 自分はどんな悪いことをしたのだ・・・と天皇に問うたそうだ。 蘇我入鹿を切りつけたのは、自分の息子の中大兄皇子。 皇極天皇は血を流す入鹿と血塗られた刀を持つ息子を交互に眺め、何も言わずに席を立ち、奥へと戻られてしまった。 つまり部下の入鹿ではなく血の繋がりのある息子を、天皇は選んだというわけだ。 多分、母の愛が勝ったのだろう。 天皇に見捨てられた入鹿はその場で首を刎ねられたのだが、その首は怨念をはらみ空へと舞い上がり、祖父の蘇我馬子が建立に尽力した飛鳥寺に落ちたと伝えられている。 その首が飛んできた場所が、飛鳥板蓋宮から500mほど離れた此処:蘇我入鹿の首塚だ。 飛鳥大仏のお顔は右から見ると厳しい表情、左から見ると柔和な表情に見える。 立つ場所を変えて仏像のお顔を拝見すると、確かに左右のその表情には差がある。 名工の鞍作止利(くらつくりのとり)の手により生まれ出た飛鳥大仏。 私の勝手な推測だが、鞍作止利はわざと表情を左右で変えたのではないだろうか。 お寺に参拝した方が最初に目にするのは厳しめのお顔。 仏像の前に座り、お経を唱え、心拍数を落ち着けることにより、優しい柔和なお顔が感じられるようになれば、それはもう仏の御心。 祈れば救われる・・・ではないが、祈ることによりストレスが解消され、仏の穏やかな顔を拝見することにより心落ちつけば、祈ったヒトは霊験あらたか・・・とか感じるかもしれない。 だから、タイトルにも使わせて貰い、その意味は「歴史を行ったり来たりしながら巡る飛鳥」的な雰囲気。 お気に入りの言葉です。 特典として200円の金券が付属します。 金券は高松塚古墳などの施設入場券の支払いやバス料金に利用でき、1960円の価格は京都-飛鳥駅の往復の電車代と同金額なので、京都駅を起点とする旅ならば買って損はない切符。 飛鳥エリアを丸1日、あちこち動き回る旅人にはお勧めの切符です。 ウェンディさん お久しぶりです。 飛鳥の旅行記、歴史書を読むような感覚で拝読しました。 実は私も昨年末からお正月にかけて奈良へ旅をした折に訪問しました。 事前の準備もなく、中学校レベルの知識どまりでの飛鳥訪問でしたので 表面をかすっただけで終わったような旅となりましたが、 古代史をもう少し勉強してから再訪したいと思いました。 飛鳥は、地元の方もおっしゃってましたが、京都を旅して 更に奈良へ、そこでも飽きたらなくなった人が辿り着くような地の 空気感が漂っている、とのこと。 時が流れ、史実として残っているものはあったとしても こんな事が実は起こっていたのではないか、事実は闇に葬り去られた のではないか、などなど、想像をたくましくしたくなる地ですね。 ウェンディさんの旅行記を拝読して、また行ってみたくなりました。 mistralさん こんにちは。 明日香(飛鳥)は、現代にありながらも1500年前の時の流れがそのまま感じられる不思議な土地。 もともとはキトラ古墳の発掘現場を自分で見たいとの思いから生まれた今回の旅企画でしたが、事前に飛鳥文化を勉強しなおしたことでキトラ以外にも、非常に興味深い旅になりました。 mistralさんがコメントくださったように「こんな事が実は起こっていたのではないか、事実は闇に葬り去られたのではないか・・・」という話はまだまだ飛鳥にはたくさんありそうです。 例えば今回の旅行記でほとんど触れなかった聖徳太子。 何でもできて、頭が良くって、何人もの話を一度に聞けて・・・と子供向けの本にある聖徳太子のイメージ像は、後の時代(天智天皇の統治時代)に創作された可能性があります。 聖徳太子=超天才的頭脳を持った皇子のイメージが最初に世に出たのは、天皇(蘇我入鹿を殺した中大兄皇子)が編纂を命じた歴史書の中のこと。 歴史書はあくまでも天智天皇の息がかかった文書であり、天智天皇の母である斉明天皇はまるで神がかり女(天智天皇は母のことが好きではなかった)的に記されていますし、蘇我一族に関しては功績はほとんど記さずに悪いことメインに残しています。 現在では、聖徳太子が行ったとされている功績のある事業の中には蘇我馬子・蝦夷が行ったモノも含まれていて、でも、天皇サイドとしては蘇我家の功績を認めたくないばかりに聖徳太子が行ったと敢えて記したとされる説もあるようです。 また、猿石や亀石についてもペルシア文明との繋がりも指摘されていて(松本清張さんの本より)、次に訪れたときにも。 今回とはまた異なる視点で遺跡を見られるのではないかという気がしています。 時を超えて私たちを惹きつける何かを、飛鳥は持っているのですね。 ウェンディさん 返信いただきありがとうございました。 聖徳太子のスーパーヒーローぶりは、あまりにスーパー過ぎていて ちょっと信じがたい部分もありますね。 今回とはまた異なる視点で遺跡を見られるのではないかという気がしています。 他の方から寄せられたコメントで 「火の路」という本、私も興味を抱きました。 取り寄せて読んでみようかとおもっています。 色々な所に、またまた興味がわき起こり、再訪したくなる地は 増える一方です。 松本清張さんの小説、気になったから調べてみました。 1973年に出版された火の路(ひのみち)で、ドラマ化されてもいるのですね。 明日香の謎にゾロアスター教の聖地であるイランのヤズドが関わっているようで、私も興味がわいたので、読んでみたいと思います。 でも、きっと読んでしまったら、またすぐに明日香村へと旅をしたくなってしまうのかもしれません。 キトラ古墳の資料館は古墳や古代史の好きな方にはお勧めで、中にいるボランティアの説明員さんが博識で,質問をすれば色々と教えてくれます。 是非、明日香を再訪時には立ち寄ってみてくださいね。 ウェンディ.

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いんぐりもんぐり : definition of いんぐりもんぐり and synonyms of いんぐりもんぐり (Japanese)

いんぐりもんぐり 意味

過去に同じような質問があります。 下記の記事およびURLをご参照ください。 揃っていない、デコボコな、ちぐはぐなという意味の阿波弁。 私は福岡県人(高卒まで)でしたが、当時ごく稀に使っていた気がします(変な意味=いやらしい意味、だった気がします)。 「いんぐりもんぐり」という意味 ・男女がイチャイチャする様を指します。 ・「いんぐりもんぐり」は広島弁で「体をくねらせ苦しむ様子」 「ごそごそする様」「くねくねする様」 教育テレビの「にほんごであそぼ」でやってた、方言みたいなのですが・・「いんぐりもんぐり」とは、どんな意味なのですか?6歳の娘が、意味が知りたい!と言うので、どこの地方で、どんな時に使うのか、どなたか、教えて下さい。 私は島根県西部です・・。 今週取り上げます阿波弁は「いんぐりちんぐり」です。 「揃っていない」とか「デコボコな」、「ちぐはぐな」という意味の阿波弁です。 調べてみたら島根県の方言で「いんぐりまんぐり」がありました。 意味は「太った人が歩く様子」。 同じく島根県の方言で「いんぐりもんぐり」「いんぐりでんぐり」意味は「曲がりくねっている様子」。 「イングリモングリ」はここから来たかも知れません。 ごそごそしちゃだめよ!!

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