斉藤ふみ離婚。 米倉涼子がアルゼンチン人と結婚?元旦那との離婚理由!|FACTOPI

米倉涼子がアルゼンチン人と結婚?元旦那との離婚理由!|FACTOPI

斉藤ふみ離婚

1987年、清純派女優として人気を集めていた斉藤とも子さんは、喜劇俳優の芦屋小雁さんと結婚。 28歳という年齢差もあり、世間を驚かせた。 神戸で暮らしはじめ、1987年に長女、92年には長男が誕生。 幸せな結婚生活を送っていた斉藤さんだったが、1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生。 幸いなことにケガはなかったというが、その直後、斉藤さんはテレビ番組のロケでタイに出発することに…。 ただ、長女の幼稚園の先生が、子どものことだけでなく、私たち家族の将来の心配までしてくださったんです。 『冷静に考えて、将来は、あなたが家族を支えるのよ。 だから、仕事に復帰しなさい。 子どもたちのことは私たちもみてあげるから』って。 それで、少しずつ関西の生放送番組のMCなどをはじめるようになりました。 それから数年後に、阪神淡路大震災が起きたんです。 あのとき、早朝だったので私は寝ていて、最初は飛行機が近くに落ちたのかと思いました。 ドーンという突き上げるような衝撃だったので。 揺れが激しくて、私は布団から起き上がれなくて、這いながら起こしに行ったんですけど、ベットが1メートルくらい床の上を横に動いていましたね。 それなのに、子どもたちは寝ていて(笑)。 たまたま主人は京都に行って留守だったので、子どもたちを連れて、お向かいのお宅に逃げ込んだんです。 そこのご夫婦が、いつも子どもたちを呼んで可愛がってくださっていたので。 高台にある鉄筋のおうちで、大きな一枚ガラスの窓から海のほうまで見渡せて、その窓から神戸の街が赤くなっていくのを見ました。 朝焼けと一緒に火の手が上がっていく情景は、鮮明に覚えています。 生まれ育った神戸の変わりようにショックを受けました」 この地震によって神戸では、電気、ガス、水道などのライフラインが途絶え、必要な物資も手に入らなくなり、多くの人が不安でいっぱいの生活を強いられることになる。 そんな折、斉藤さんはドキュメンタリー番組の仕事で、タイのスラム街で生活する人々や山岳民族を訪ねることに。 「阪神淡路大震災で神戸では、家が崩壊したり、ガス、電気、水道が止まってパニックに陥っていたなかで、みんな支援を待つしかなかったんです。 それが悪いとかではなくて、ガス、電気、水道があるのが当たり前という生活しかしてないし、私もそうだった。 でも、タイの山岳民族の人たちは、貧しいと思っていたのに、むしろ逞(たくま)しかった。 自分の手足で畑を耕して作物を作り、家畜を飼い、火をおこし、電気がなくてもお日様の明かりだけで生活している。 そういう人たちを目の当たりにしたときに、人が生きる原点はこういうことなんだと思って。 『私は何をやってきたのだろう?』と、何もできない自分が恥ずかしくなりました。 夜、村のふもとの寮では、自家発電の灯りの下で一生懸命勉強している子どもたちがいました。 将来は自分の村に帰ってお医者さんになるとか、学校の先生になると目を輝かせて夢を語る姿を見たときに、『何のために勉強するのか。 それは、世のなかに役立てるためなんだ』ということを、その子たちに教えられたんです。 それで、『もう一回勉強したい』って、そのときにはじめて思ったんですよね。 帰国して、『もう一度生き直したい』という思いも湧いてきて、主人と、それまでのお互いの関係も含めて話し合った末、結果的に、離婚することになり、私は子どもたちを連れて上京しました」 高校を中退している斉藤さんが大学に入学するためには、まず受験資格を取らなければならず、大検(大学入学資格検定)を受けることにしたという。 「大検は高校で取っていた単位は免除されて、足りない単位だけ取ればよかったので、わりと優しかったんです。 「やっと大学に合格したので、学業を優先するつもりだったんですけど、井上ひさし先生の戯曲『父と暮せば』で、広島の原爆で被爆した娘役のお話をいただいて。 以前、この舞台を見て強く印象に残っていたこともあり、これだけはやらせていただきたいと思ったんです。 でも、原爆について何も知らない自分に演じられるのかという不安もあって、せめて広島の空気を感じてみようと、ひとりで広島に行きました。 そこで被爆者の方と思わぬ出会いがあったんです。 被爆者の人たちが、忘れることのできないつらい思いを抱えながらも、懸命に前を向いて生きている姿に触れて、私は自分に自信がないとか、生きていく価値がないとウジウジしていたことが恥ずかしくなりました。 そのあとも広島に通い続けて、私は、被爆者の方たちから『人間が生きるとはどういうことなのか』を教わった気がします」 斉藤さんは、2003年に東洋大学を卒業後、東洋大学大学院に進学。 2005年に同大学院社会学研究科福祉社会システム専攻を修了。 胎内被爆による小頭症患者とその家族の会(きのこ会)の歩みを修士論文にした「きのこ雲の下から、明日へ」を上梓(じょうし)する。 それに、ユーモアもあって優しい。 強さは脆(もろ)さと背中あわせであることも教えられました。 心底つらい目にあった人は、そこだけに向き合っては生きていけないんだと思うんです。 原爆なんて、あまりにも理不尽で、残酷ですから。 やっぱり人って笑わないと生きていけない気がするんです。 泣かないというのは一つの自己防衛ではないかと。 もちろん、泣けるときは思いっきり泣いたほうがいいと思うんです。 でも、悲しみだけを見つめないで、少しでも光の見える方に、何か新しいこととか、楽しいこととか、1歩踏み出せそうなことに意識を持って行く。 その代わり、他人の悲しみには目を背けられないんですよね。 痛みを知っているからこそ、『つらいだろうなあ』ってわかるから。 17歳のとき、収録は井上先生のお宅だったんですが、私は風邪をひいて、本番中に咳がとまらなくなって、収録がストップして。 昼休みにお部屋に寝かせていただいて、鍋焼きうどんを取っていただいたりして(笑)。 すごいドジをしたために、逆に印象が残っていたみたいで、こまつ座の公演『頭痛肩こり樋口一葉』(1985年 春)にお声をかけてくださったんです。 そのときは『娘よ』の巡演が決まっていて出演できなかったんですが、次の公演『きらめく星座』(1985年 秋)のときにまた声をかけてくださって。 井上先生の初演出で夢のようでした。 先生のダメ出しが文学的で(笑)。 でも、それだけを選んでいるわけではないんですよ(笑)。 ただ、『父と暮せば』は私にとっては運命的で、被爆者の方との出会いも、この作品がなければなかったですし、『女優を続けよう』って思わせてくれたのもそうです。 その当時を知る体験者、専門家の証言を中心に、米軍が撮影した記録フィルムを交え、米軍の上陸作戦から戦闘終了までを描く映画『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』(7月25日(土) 公開)で斉藤さんは、宝田明さんとともにナレーションを担当している。 「太田(隆文監督)さんが声をかけてくださったのもうれしかったし、沖縄は私にとって大事なテーマで、大学に入ったら、福祉のかたわら沖縄を勉強しようと思っていたんです。 それが被爆者の方たちと出会って、その生き方に引きつけられて離れられなくなって、沖縄のことは気になりながら、置いてあった状態だったんです。 作品に引き込まれて自分の思いが溢(あふ)れてくるので、感情が入りすぎないように抑えたつもりだったんですが…。 何より、今回の作品は証言がいのちなので、その邪魔をしたくないと思いました。 宝田明さんのナレーションも力強くて、やはり体験された方は違いますよね。 私は沖縄のことを少しは勉強したつもりでしたけど、この作品ではじめて知ったことが、少なくともふたつあります。 ひとつは14歳以上の沖縄の子どもたちが兵士として戦わされていたということ。 鉄血勤皇隊の話は聞いていたのに、『14歳』の子どもからということが、ちゃんと把握できてなかったんです。 本土の男の子は17歳からの徴兵なのに、沖縄では14歳から強制的に徴兵されたという事実が、写真の映像を通して突き刺さってきました。 もうひとつは、アメリカが日本を統治するにあたって、日本人の沖縄に対する差別意識を知っていて、それを利用したと、アメリカのハンドブックにまで書かれていたということです。 東日本大震災での福島の原発事故を題材にした映画でした。 福島の子どもたちが、移住先で差別やいじめにあっているという報道があったとき、被爆者の知り合いが本当に胸を痛めて怒って、『その学校に自分が話をしに行きたい』って言ったんですよ。 『私は原爆で放射能を浴びたけど、今も80代でこんなに元気で生きている。 放射能は人から人にはうつらないから、差別なんてやめなさいって言いに行きたい』って。 被爆者の人たちは、福島の人たちのことを自分のことのように胸を痛めて心配しているんです。 私はそこを繋げられないかなって思うんです。 構えた堅苦しい感じじゃなくて、福島で不安を抱える人と、被爆者の人が、一緒にお茶を飲んだりするだけでもいいと思うんです。 出会えば、感じることって、絶対にあるから」 世のなかで起きていることは全部つながっていて、自分とも深く関わっている。 自分が支えてもらい、助けてもらった恩返しをしたいという真摯な思いが凛とした眼差しから伝わって来る。 2008年から昨年末までは、高齢者のデイサービスセンターで介護福祉士として勤務していた斉藤さん。 妹さんは医師になり、現在、クリニックで新型コロナウイルス感染症におびえる患者さんたちと、日々向き合い続けているという。 1日もはやく終息してくれることを願うばかりだ。 (津島令子) 外部サイト.

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米倉涼子がアルゼンチン人と結婚?元旦那との離婚理由!|FACTOPI

斉藤ふみ離婚

斉藤ふみ 九州のテレビ、ラジオで活躍中のタレント、ファッションデザイナー。 1974年7月「23日生まれだから」というシンプルな理由で「ふみ」と名付けられる。 KBC九州朝日放送のテレビ番組『ドォーモ』のメインMCをはじめとして、 FM福岡の人気パーソナリティとしても活躍中。 2010年、自身がデザイナーを務めるベビー服ブランド 「SHEEPMAN WONDER シープマン・ワンダー 」を立ち上げた。 一児の母。 野田 今日はデザイナーとしての顔も持つ斉藤さんに 「ファッションとわたし」的なテーマでお話しを伺いたいなと。 斉藤さんは自分で服も作ってますよね? 斉藤 はいはい、作ってますし、 ブランドも立ち上げたんですけど・・・。 最初の立ち上げ資金すら、全く回収できてないという状況です。 野田 それはそれは 苦笑 斉藤 でも分かったことが一つあります。 私、向いてないんですよ、自分で売ったりするのは。 まるで経営に向いてない。 やっぱり服は「売る」より「買う」方がいいですね 笑 野田 原価率なんて考えないで 「喜ばれる服」を作るって言いよったもんね。 斉藤 そうそう、妥協は絶対出来ないからですね、特に子供服は。 野田 でも、僕ら素人から見ると、 それだけこだわりを持って作った物だったら 値段を上げればいいのに、と思うけどねぇ。 斉藤 それが子供服ってなかなか値段は上げられないんですよ。 特に赤ちゃんの服って言うと、みんな成長が早いじゃないですか。 着ても1年とかいう世界なわけですよ。 作った物に関しては全部、自信があるので、 販売をやめたりはしないですね。 ただ、仮に在庫が全部売れたとしても、 決して儲かりはしないという世の中の厳しさを ガチで目の当たりにしています 笑 野田 そもそも斉藤さんって、洋服に対する お金のかけ方が半端ないですよね。 斉藤 仕方が無いですよね。 「水を飲む」のと一緒なんですよ、 私にとって「服を買う」という行為は。 朝起きたら水を飲むのと何ら変わらないというか、 ファッションにふれてないと生きていけないんですよね。 野田 何でそんなにファッション好きになったの? 斉藤 やっぱり一番は「コンプレックス」ですね。 自分の顔にもスタイルにも自信が無いし、 頑張って何かをやっても「おもしろい」とは言われますけど 「女らしい」とは言われない。 野田 はいはい 笑 斉藤 うなづかないでくださいよ! 笑 だから、そんな中で、自分を磨く手段として 最高だと思ったのが洋服だったんですよ。 例えば、デニムを穿くにしても、 ちょっと形が違うだけで細く見えるとか、 ほんのちょっとした違いで、自分の見え方が 全然違うって発見したときに「これだ!」って思ったんですよ。 野田 それ、いくつぐらいの時? 斉藤 高校生ぐらいの頃からファッションは好きだったんですけど、 その頃は「マドンナがカッコイイからケミカルウォッシュの ジーンズを穿こう」とか、その程度だったんですよね。 で、20歳ぐらいでこの仕事を始めてから、 「人に見られる」っていうのを意識するようになって、 どうやったらちょっとでも自分が良くなるかを 考えているうちに、どんどん洋服が好きになって、 今はもう大変な事になってしまってます 笑 野田 大変な事になってしまいましたか 笑 斉藤 それで、洋服そのものが好きになって、 「ハンガーにかかっているこの感じが好き」とか、 お気に入りの服を壁に掛けてるだけで幸せなんですよ。 野田 着なくても? 斉藤 着なくても。 画になるんですよ、洋服って。 野田 確かにTシャツとかも 並べて飾ってるだけでカッコイイもんね。 斉藤 でしょう? だから着るだけじゃない、服のすべてが好きになったんです。 自分を幸せにしてくれるものなんですよね、服って。 野田 僕はディレクターとして、斉藤さんのデビューの頃から、 ご一緒させて頂いてますが、初めて一緒にロケに 行ったときの服を今でも覚えてますよ。 古着なのか、ただ古いだけなのか、よくわからない服でしたね。 その時「ああ、この子は新人でお金も無いんだろうなぁ」 と切ない気持ちになったのを思い出しました 笑 斉藤 わかりました? 笑 あの頃はホントにお金なかったですもん。 野田 よく頑張りました 笑 斉藤 でも、お金が無い中でも自分なりに ファッションにはこだわりがあったんですよ。 それで、すごく気に入ってた靴とコートをいつも着てたんですよね。 そしたら野田さんから「お前、またそれ?」 って言われた事ありますよ 笑 野田 俺が言った? ヒドイ事言うね 笑 斉藤 ダメージ系のデニムを見て「破れとうよ」 とかも言われたし、ヒドイよ 爆笑。 でも、そんな事があって今があるんだとは思いますけど。 野田 私の暴言がバネになって、今の斉藤ふみがあると。 斉藤 いや、そこまでは言ってない! 野田 そんなこんなで、服にはまって、 これまでにいくらぐらい使いました? 斉藤 うわぁ恐ろしい。 考えたくない! 野田 例えば、今乗ってる車何台分とか? 斉藤 しばし考えて 10台はイッテるんじゃないですかね。 そんなに高い車じゃないですけど。 野田 車種を知ってるだけに えーっ、それ家が建つやんか! 斉藤 あ~建つかも、安い家だったら。 野田 だったら、家建てた方がよかっ・・・ 斉藤 遮って そういう問題じゃないんですよ! 家が欲しいわけじゃないんですよ、洋服が欲しいんですもん。 野田 あ~、はいはい 分かったような、分からないような 斉藤 私、散々貧乏してきて、なにしろ小学校6年生まで 家族4人で6畳一間の生活でしたから・・・。 その反動のすべてがファッションに向かってるんでしょうね。 野田 今でも無茶買いしてる? 斉藤 以前は、好きと思ったら、値段も何も見ないで 無茶買いしてましたけど、ここ10年ぐらいは ちょっと考えるようになって、買い方も変わってきました。 ホントに長く着られるものなんだけど、 面白い服を選ぶようにしています。 野田 面白い服? そういや今日のスカートも面白いよね、 カウボーイが馬に乗る時、ヒラヒラさせてるような革で。 野田 パンクだね。 斉藤 そう!そうなんですよ、まさにパンク! 野田 でも長く着られるものばっかり買ってると、 カラダ一つじゃ足りなくなるよね。 着ないというか、着る時間が無い服が出てくるでしょ? 斉藤 はい、それが今、私の人生の課題なんですよ。 でも、若い頃に比べると1着の単価が上がってないですか? 例えば、昔は5千円のものを5着買ってたのが、 今は2万円を1着だけとか。 野田 あぁ、それはあるかもね。 斉藤 それでバランスが取れてるんじゃないですか? ダメ?そんなんじゃ 爆笑 ? 野田 修行が足りないね、お互い。 斉藤 修行? もう一回行きますか?インドに。 テーマは「修行と言えばインドの山奥」という、 わけのわからないものだったが、激しい下痢と腹痛、 高山病と戦いながら、ヒマラヤの氷河が溶け落ちる ガンジス川源流の撮影に成功したのだ。 野田 考えてみたら、斉藤さんとは 過酷なロケいっぱいやりましたね。 斉藤 やったやった。 北海道の礼文島を歩いて日本最北端を目指したり、 ハワイ島の上空で吹き出す溶岩を撮影したり、 公園の泥水すすったり・・・。 そんなのに比べたら、行った人みんなが 「大変だよ、キツイよ」って言ってた 屋久島の縄文杉登山なんかは、結構楽勝な方だったかも。 野田 もう出来ないんじゃない? 斉藤 うん、出来ない・・・って、 そんなネタ振りみたいなトークはやめてください 笑。 でも、そんな過酷なロケの機会が無くなった分、 最近はスタジオでお話しするお仕事をいただけるようになりました。 最初は私みたいな人間がコメンテーターみたいな事やっていいのか、 と思ってお断りしてたんですけど、「やるべきだ」っていう 周りの人たちに背中を押されるようにしてやってます。 だからこそ、勉強しなくちゃ、 という気持ちが年々強くなってますね。 斉藤 はい。 野田 お、うまくまとめてきたね。 斉藤 うまい?私うまくなりました? 野田 うん、20年前に比べると格段にうまくなったね。 今日はありがとうございました。 斉藤 ありがとうございました。 え、こんなインタビューでいいんですか? 帰り支度をしながら ファッションかぁ・・・、 やっぱり、その人の生き方とか、 思想が無いと、服に着られちゃいますからね。 野田 それ名言?「服は着ても・・・」 斉藤 「着られるな」 二人 拍手・大爆笑.

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斉藤とも子「もう一度生き直したい」と離婚。震災直後に訪れたタイで、人生観が激変

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斉藤とも子の若い頃と今現在は?元夫との離婚理由や子供、本名も気になる【爆報THEフライデー】 スポンサードリンク 映画「永遠の0(ゼロ)」で 橋爪功さん演じる井崎 源次郎の 娘役として出演していた 「 斉藤とも子(さいとう ともこ)」さんを 覚えていますか? 70年代にはアイドルとして、 そして映画やテレビドラマ、舞台にと 活躍されていた大女優ですが、 最近あまりテレビで見かけないような気がしませんか? そんな 斉藤とも子さんが 3月25日放送の「 爆報フライデー」に登場します。 なので今回は、 斉藤とも子さんの 今現在や若い頃、 超年の差婚をした元夫との離婚理由や子供、 そして本名についても気になったので、調べてみました。 斉藤とも子のプロフィール(1ページ目)• 「斉藤とも子」は改名した名前?(1ページ目)• 斉藤とも子の若い頃の画像は?(2ページ目)• 斉藤とも子の元夫は誰?離婚した理由や子供は?(2ページ目) 斉藤とも子のプロフィール• 名前:斉藤とも子(さいとう ともこ)• 本名:斉藤友子(読みは同じ)• 出身地:兵庫県神戸市• 血液型:AB型• 身長:159cm• 体重:48kg 斉藤とも子さんの父親は医師で、 妹さんが1人いらっしゃるそうです。 小学校6年生の時に母親がガンを患って他界。 同じ境遇の家庭がテーマとなった ドラマ「微笑」を見て感激を受け、 それがきっかけとなり 芸能界を目指すようになったんだとか! 私も早くに母親が他界してしまい、 途方にくれたことがありました。 突然のことだったので尚更だったのですが、 本当に悲しくて辛くて… 今でも思い出すと涙が溢れます。。 同じ境遇の人がいると知るだけで (たとえドラマの世界であっても) 救われることってありますよね! でも、それに感動して芸能界を目指して 実際にデビューするなんて 斉藤とも子さんの行動力にびっくりです 笑 私は気持ちの切り替えがなかなかできなかったのですが、 斉藤とも子さんにとっての気持ちの切り替えスイッチが 偶然見たドラマだったのでしょうね。 なぜ改名したのでしょうか? それは、 占い師からのアドバイスを受けたからなんだそう。 斉藤とも子さんはきっと占いを信じる方なのでしょうね~。

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